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序
ある日、天狗のタイマは人を喰わなくなった。
連れ去りもしなければ、脅かしもしない。殺さない。喰わない。だからお前はよほど変な奴だと、文句を言った。
「貴様は化け物だろう。なぜ人を喰わないんだ」
タイマは、ううんとつぶやいてから、首をかしげた。白い両翼を広げて伸びをすると、樹上から、わしを見下ろした。鋭く、黄色い双眸を細め、長い鼻を指先でいじくる。
「そんなら、お前はどうして人を食べるんだ?」
逆に問われて閉口した。うずまき模様の着流しの袖に両腕をつっこみ、ううん、と低くうなる。それでも言葉は見つからずしゃがみこんだ。腐った木の根のにおいが鼻をつく。それに三つ目を細めて、低くうなった。
「やりたいから、やっとるんじゃないか」
しぼりだしたような返答に、樹上の化け物は愉快そうに笑いだした。
「そんなら、俺だってそうだ」と言って、腐った枝の上で寝転がり、笑みを深めた。馬鹿にされているのだと思い、むっとして牙を見せた。
「狂いめ。化け物のくせをして、人間を助けるなど、どうかしているぞ」
嘲笑を浮かべて見たが、意にも介していない。長い鼻先をいじくりながら、空を眺めていた。相変わらずの余裕な様に、内臓の底が熱くなる。
「わしは立派な鬼の化け物だが、貴様はただの臆病者じゃ。人間を喰うのが、怖いだけなんだ」
ついにタイマは膝を打って、笑いだした。その快活な笑い声は天地をゆさぶった。雲を切るような轟音と、それに反響した大地が鳴動している。振動によろめきながら「何がおかしい」と、牙を見せて睨み上げた。
「なに俺はもっと単純だ。面白いからやっている」
「ふざけたことを」
「本当だとも」
タイマはゆるやかな笑みを落として、天を見上げた。
「太陽に近づきすぎると、羽根は燃えて地に落ちるらしいな」
「何だそれは」
「さあね」
枝を蹴り上げて、藍色の空に向かって飛びあがる。その両翼は、一度大きく空中を旋回し、白い満月のかがやきに重なった。天狗の羽根は、まぶしく光っている。そのかがやきが、いつもわしの矮小な何かをさかなでる。指をさされて笑われているような気がする。しかし、と首をかしげる。なぜあいつはいつも一人なのだろうか。
ある日、わしは闇の谷の向こう側にある、荒野の山脈のてっぺんにいた。
地上を見下ろしながら、胸をやくような酸を吸いこんで、それを勢いよく吐きだす。黄色い煙が、糸のように細くたなびき、雲の形を成していった。わしが、てっぺんに一日も座をしめていれば、おそらく山脈一帯は、黄色い雲で覆われることだろう。そこからは、酸の雨が降る。雨にあたった、影の群れを溶かし、影はやはり苦痛に鳴くのだろう。
その厚い雲に覆われた空を見上げて、腐敗した地上を、群れで移動する貧弱な影は、「モウ、モウ」と鳴いていた。その鳴き声は、どこか弱弱しく、途切れがちだ。何を言っているのかも、わからない。
タイマが言うには、郷愁だか、なんだかを感じているのだそうだ。こんな薄汚れた地で、何をなつかしく想うのか。馬鹿馬鹿しくて、つきあってはいられない。
「八枯れ」
耳慣れた声に呼ばれ顔を上げると、藍色の空を旋回している天狗を見つけた。タイマは、大きな白い羽根を広げて、荒野に降り立つと、わしを見つめて快活な笑みを浮かべる。
するどい目は黄色く、赤い鼻は長い。その笑顔に、ふんと鼻を鳴らすと、うずまき模様の着流しの袖に腕をつっこんだ。
「あいつらは、現世の生物を好んで誘惑し、引きずりこんどるくせに、何を感傷に浸る必要があるのか。うまいもんは、いくらも喰えとるくせに。贅沢な」
「お前だって、あらゆる生と言う生を枯らし、闇をつくるだろう。物体も、天地自然も、時空間も、感覚さえも、枯らし、消してしまう。それをひどいことだと思ってやしない」
「なぜひどいんだ」
「お前と同じだよ。わからないだけさ」
「あんな軟弱とは違う」
「馬鹿だね」
「貴様にだけは言われたくないな」
「ああ、良かった。お前も馬鹿な自覚はあるのか」
「殺してやろうか」
ちらと牙をのぞかせて、タイマを見る。腕か足か、ひと噛みしてやろうと、思ったが、それ以上に信じられないものを見つけて、言葉を無くした。動きの鈍くなったわしに、薄い笑みを浮かべて、抱えているものを見せびらかしてきた。
「いいだろう。すごいものを見つけたんだ」
表情を歪めて、後ずさった。良いも悪いもあるものか。なんてものを持っていやがる。
「まさか、地上から引っ張りこんだのか」
「闇の谷に転がってたんだ。お前が昔よく口にしていたものだろう」
「人の子か?」
「でもこれ動かないぜ。どうやったら動くかな?」
天狗は、白い布に覆われた赤ん坊を、空にかざして、首をかしげていた。この時ほど、考えなしの天狗を恐ろしいと思ったことはなかった。わしは、三つ目の一つをこりこりとかきながら、ため息を吐き出した。
「いますぐ捨ててこい。どうせ、もう死んどる」
タイマは表情を歪めて「いいじゃないか。このままじゃ可哀想だ。直せば、動くかもしれない」と、ふざけたことをぬかした。
可哀想?直す?化け物のくせをして、相変わらず、くだらぬことばかり考える。ここは、生物の死を統べる場所だ。人間どもの言葉を借りて言うなら、「黄泉」だとか、「彼岸」だとか言う。つまり、滅多に肉体など存在できないところだ。しかし、馬鹿天狗が、いま空に向かってかかげている赤ん坊は、魂ではない。なりそこないの死骸か、魔か。いずれにせよ、もう「生物」と呼べるものではないのだろう。
「おい貴様、それを谷で拾ったと言ったな」
低く問うと、タイマはするどい目を細めて、笑みを浮かべた。その笑い顔に、背筋が寒くなる。相変わらず、何を考えているのか、さっぱりわからない。
そもそも、こいつは勝手な奴なのだ。つまらないから、と言っては脅かすのも、殺すのもやめる。まずいからと言って、人間を喰わなくなる。影の群れが消そうとする魂を、勝手に持ち出しては逃がし、あげく今度は、闇の谷のごみを拾うだと?馬鹿も程が過ぎると、笑えない。
「怖い顔が、もっと怖くなってるな」
「誰のせいだと、思っとるんだ」
「ひどい奴だな。いつか、こらしめてやる」
「貴様のことだ」
タイマはわしの眉間に長い爪をあて、そのまま皺をなぞった。それを乱暴に振り払って、睨みつけるが、動じることなく、声を上げて笑っていた。このくそったれの、狂い天狗め。
「よこせ」
わしが手を広げて見せると、タイマは急に無表情になって、わしをじっと見つめた。
「どうするつもりだ?」
「喰うに決まっとる」
眉間に皺をよせる。当然だろう、と言うとタイマは大きなため息をついて、黙りこんだ。赤ん坊を肩に抱いて、大きな白い羽根を広げた。強い風が巻き起こり、わしの着流しを翻させた。
飛翔する気か。そう思い、身構えると、タイマは妙なまなざしで、わしをじっと、見つめた。化け物なら、とうてい抱くはずのない感情を宿した、嫌なまなざしだった。
「捕まえてみろよ。最強の鬼なんだろう?」
そのやわらかな声が、癪に障った。勢いよく、飛びかかろうとした瞬間、白い天狗は藍色の空に向かって、高く飛翔して行った。そのとき、たしかに聞こえた赤ん坊の小さな泣き声に、眉をひそめた。
「生きているのか」舌打ちをして、タイマの後を追った。
岩谷を飛びこえ、酸のたちこめる森を抜ける。黒いにごった液体が流れる沢を下り、荒野に出た。見上げると、深い藍色の空のまんなかに、白い満月が浮かんでいる。そばを、天狗の白いかがやきが、かけ抜けてゆく。あいつは、闇の谷に向かっているのだろうか。
腐った土を踏みながら、舌打ちをした。地をはうことしか知らないものは、空を飛ぶものには敵わない。しかし、わしは誰よりも早く走ることができる。泥土を踏み分けて、走る速度を上げる。風が耳を切る。肌に酸の霧がぶつかる。辺りの闇にひそむ影の群れが、わしの匂いをかぎつけて、集まってきた。
「モウ、モウ、モウ」と言う、ささやきが肥大化してゆく。のろい足で、ずずず、と後を追いかけて来ている。否、タイマの後かもしれない。鈍足の分際で、数があるからか、一つの山を越えるたびに、ふくれあがってゆく。いまや、山一つ分にまで増えた影の塊が、わしのすぐ後ろに迫ってきている。
足を止めたら、闇に飲み込まれるだろう。なんの思考も持たぬ、影の一つとして、生を喰うことになる。それだけは、御免だった。
「邪魔をするな」
わしが苛立ちに任せて叫ぶと、影は飛散した。それでも、しつこく腕や足にまとわりついてくる。それを引きはがし、蹴り飛ばし、踏みつけ、喰い散らし、走り続ける。目の前が、だんだんと薄暗くなってきた。闇の谷に入るのだ。
黒いごつごつとした岩が、ささくれだって、天を向いている。その砂利のそばには、いくつもの死肉が転がっている。腐敗臭と、濃い硫黄のにおいが立ち込めており、それを嗅いで、深呼吸した。やはり、深淵の空気が一番うまい。死肉と、血と、怨恨と、泥土の混じり合う大地は、わしにとってのゆりかごだった。
ここにある、くずごみのような死体の山は、みな影の群れが、崖から谷に落としたものだった。腐敗し、どろどろに崩れた血肉は、沢に流れこみ、川を赤黒く染める。この血肉の中で、わしは生れた。
同種の肉を喰い、鬼となり、この大地で生きるようになり、何百年経ったことだろう。いまは、もう生まれた時のことなど、忘れている。誰が生んだのか、どう生まれたのか、どう死んだのかなど、わしには、大した問題ではないからだ。
死を統べる土地だが、時折、肉も混ざって生まれるようだ。もちろん、タイマの持っていたものほど、しっかりした形をしてはいない。あれこそ、稀だ。どうやって、生まれてくるのかは、定かではないが、死ではないものは、魑魅魍魎に畏怖され、ここに捨てられる。わしもその一つだった。だからこそ、「闇の谷」なのだ。ここは、生と死の境界にある。
ふと、空を見上げると、白い大きな羽根が見えた。そのまぶしさに、目を細め、あいつだけはこの闇に染まり、汚れることはないのか、と鼻を鳴らした。
タイマは谷の真上で、両翼を広げて旋回していた。竜巻を何度か起こすが、あまり効果はない。崖の上では、赤ん坊をつかまえようと手をのばす、影の群れであふれ返っていた。「モウモウモウ」と言うささやき声は、何かを恐れているようだった。羽根を広げ、風を起こし、影を消し飛ばす。それでも寄り集まって、しつこくまとわりつこうとしてくる。わしと同じ目にあっている。
言わんこっちゃない。だから、早く喰えばいいものを。わしは呆れたため息を吐いて、タイマと影の攻防をしばらく眺めていた。大方、あの群れはまた「生」を捨てたいだけなのだろう。しかし、こんな狭い世界内では、逃げ場などない。いずれ、ここまで追いつめられることをわかっていて、なぜあいつは諦めないのだろうか。
ぶる、と背中を震わせて、立ち上がった。やはり、谷の底は相当冷える。しかたがないな、と旋回を続けるタイマに向かって叫ぶ。
「それを、こっちへ投げろ」
考えがあった訳では無い。しかし、放っても置けないのが、嫌な性分だ。タイマも影に渡すよりは、マシとでも思ったのか。わしの声を聞いて、大きく羽根を広げると、勢いよく滑空してきた。わしは、三つ目を見開くと、その勢いに驚いて、後ずさる。タイマはスピードを落とさず、谷の底に向かって飛んで来た。ちょっと待て。
焦って、息を飲む。あいつは、何を考えている?読めない。このまま行けば、岩に激突するぞ。まさか、死にたい訳でもあるまい。では、なぜだ。わしに何かさせたいのか。何を?
「ひらいてくれ、そこを」
風を切りながら、タイマの叫び声が近づいてくる。開くだと?わしは、暗い足元を見つめて、ハッとした。砂利と、石と、腐肉ばかりが転がる谷の底も、一つの「地」なのだ。そうか、と思い、しゃがみこんでその大地に、触れた。ひんやりと冷たく、爪をしびれさせた。ここでは何も生まれず、育ちもしないだろう。
だが、わしはここで生まれ育ち、八つの命を枯らす鬼となった。この谷は闇の集積だ。しかし、わしならこの闇の大地にさえも亀裂を、命の終わりを、与えることができる。唯一の鬼なのだ。
勢い込んで力を入れた。破壊音と破裂音と共に、大地がひび割れる。地割れの振動で、世界が左右に、大きくゆれた。勢いこんで、舞い降りてきたタイマが、その亀裂に向かって飛びこんで行った。わしは呆気にとられ、うっかり足を滑らした。
「おい、待て。まさか」
手をのばし、とがった岩をつかもうとしたが、間に合わなかった。そのまま、自分で開けた、闇の亀裂の中へと落ちてゆく。彼岸を飛び出した。
こうして望みもしていない「現世」へと、生を移すことになった。そのうえ、どのような現象か定かではないが、天狗だったタイマは、人の姿を持って生まれてきたようだ。だが、普通の生まれ方をしてこなかったのだろう。屋敷内で上がった人間たちの悲鳴から、それがわかる。
「ようだ」とか「だろう」と、言うのも、わしが庭の草むらの中に、頭をつっこんでしまい、その瞬間を見ていなかったからだ。尻の後ろで、人間どもがわめき、走り回る音だけが、聞こえてきた。なんとも間の抜けた、はじまりである。
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