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海も山もあるこの街の山側。その入り組んだ住宅地の奥にあるのが俺の店、『Splendida』
38で独立し、開店して早10年。
古民家を改築し店と住居にした建物はどこか懐かしさを覚えるような落ち着いた雰囲気だ。
特に気に入っているのは中庭。掃き出しの大きな窓の向こうに見える箱庭のようなその場所は、春には桜、秋には紅葉が楽しめる。
今はどちらも緑の葉が生い茂り、そこに掴まった蝉がけたたましい鳴き声を上げていた。
8月も後半に差し掛かった日曜日の昼下がり。庭に面した一番人気の席に座るのは、今日の主役たちだった。
「ご馳走様でした。お料理がどれも美味しくて食べ過ぎました。あとお酒も。ごめんね、冬弥君。私ばっかり飲んじゃって」
申し訳なさそうに言うのは、冬弥と婚約したばかりの千春ちゃん。
ついこの前店に連れてきたかと思ったら、もう婚約したと聞かされ驚いた。今日は祝いも兼ねてうちに呼んで食事会を開催したのだった。
「いいのいいの。冬弥はどっちにしろ飲めないんだから。千春ちゃんは飲める口みたいだから、これから楽しみだわぁ」
お祝いにと用意したシャンパンを、結局久美と千春ちゃん二人で開けていた。下戸の冬弥とまだ運転する予定のある俺が飲むのはただのジンジャーエールだ。
「ちーちゃん。母さんに合わせなくていいから。今まで飲み過ぎて何度健二さんに迷惑かけたか」
「大丈夫。無理はしてないよ」
氷の貴公子などと呼ばれていると聞く冬弥だが、今は見るも無残に婚約者にデレデレで、その顔を鏡で見せてやりたい、なんて思う。
「あら失礼ね。別に健二に迷惑かけた覚えなんてないわよ」
「そんなことないでしょ。健二さんのところに泊まって帰るのって飲み過ぎたからなんでしょ?」
「えっ?」
その発言に驚いているのは千春ちゃんで、冬弥は呆れたように久美に言っている。
そういや遠い昔、ここに俺が越して家が遠くなり、久美は帰るのが面倒でそんな言い訳をしたことがあった。それをいまだに勘繰ることなく信じ切ってるのが冬弥らしい。
「そっ、それは!」
慌てふためく久美を見て笑いを堪えながら俺は切り出した。
「冬弥。実は俺も結婚しようと思うんだ」
「健二さんも?」
「で、証人になってくれねぇかなと思って」
「へっ?」
久美はまだシャンパンが入っているグラスを置くと、変な声を出し慌てている。
俺は笑いながら忍ばせていた紙とペンを取り出すと、テーブルに広げて冬弥に差し出す。
「喜んで。って、健二さん。相手の人、記入ないけど……大丈夫?」
「あとで書いてもらおうと思ってな。先がいいならそうするけど?」
「ううん? いいよ」
冬弥はなんの疑いもなく俺だけ記入してある婚姻届の証人欄に名前を書く。
「じゃ、もう一人は千春ちゃん。書いてもらっていいか?」
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