18人が本棚に入れています
本棚に追加
夕暮れ過ぎになると秋を誘う虫の音が響き始める頃、まだ湿気は高く寝苦しい夜が続いていた。八階建てのオートロックマンションでは、各部屋の室外機が静かな唸り声を響かせ、せっかくの虫の音もとうてい五階までは届いていない。
そんなある日の深夜、503号室の一室でノートパソコンのモニターを睨む多聞航平 は、一心不乱にカタカタとキーボードを打ちつけていた。
先日、彼の書籍を原作とした映像作品が劇場で公開され、そこそこのヒットを飛ばしたばかりだ。そんな彼の仕事時間は、いつも世間的に寝静まる深夜と決まっている。
最も集中力の高まる午前零時過ぎ、冷房の空調音とキーをプレスする音との間に、最初は蚊の鳴くような「…ちゃん」という声が聞こえた。二十畳ほどのリビング兼仕事部屋には、三十路で独身の多聞以外に誰もいないはずだった。
(また来客か?)
声が段々とハッキリ聞こえるにつれ、その声の主が女性だとわかる。誰もいるはずのない場所から何者かの声が聞こえる、それは多聞にとって日常茶飯事で、とかく驚くべき事象ではなかった。
二十歳を過ぎた頃から、多聞には目に見えない何者かの声がハッキリと聞こえるようになっていた。それは場所や時間を問わず突然聞こえてくるので、最初はとても恐ろしく怖いものであった。
しかし、もともと好奇心が旺盛で心霊や怪談の類に興味を持っていたことや、こんな状態を十年も繰り返すといい加減慣れてくるもので、遭遇してもある程度は無視して普通に生活が送れるようになっていた。
だがそれが執筆中となると、また話は変わってくる。多聞は天然パーマのもじゃっとした頭の後ろを無造作に掻きむしり、眼鏡を外して天井を仰ぐ。目頭の間をギュッと摘まむと、それまでよく集中していたせいかピリリと痛気持ち良さが全身を駆け巡った。
見えない存在に執筆を妨害されるのは、数か月前に毎晩丑三つ時になると聞こえる謎の鈴の音以来だった。
こういう体質なのだから仕方ない。いちいち取り合っていたら仕事は進まず、締め切りに間に合わなくなる。そう思い、気を取り直して無視を決め込もうと再びモニター画面に目を向けると、
「……ちゃん。コウちゃん」
と、はっきり名を呼ぶ声が聞こえた。しかもそれは、幼い頃の自分の愛称だ。
(僕を呼んでるのか? もしかして、僕を知っている? “航ちゃん”と呼ぶ奴はそんなに多くないぞ……)
脳内のアルバムを高速で捲る。この愛称で呼ばれたのは主に小学生の頃で、しかも異性でこう呼ぶのは一人しかいなかった。
最初のコメントを投稿しよう!