20人が本棚に入れています
本棚に追加
果たしてその人は現れた。
樋口一、はじめと読むらしい。
「あと一文字で、樋口一葉になりますね」
そんなくだらないことを私はつい口走ってしまったけど、彼は笑うだけだった。
「よく言われます」
彼の様子に格別な感銘を受けたとか、そういうことはなかった。ごくごく普通の、中肉中背に眼鏡の日本人男性、敢えて言うならおじさんという印象で、それにプラスアルファの感想を付け加えるのは難しい。大学時代によく見かけた大人しい理系男子が、そのまま歳をとったような雰囲気の男性だ。だけど、樋口さんの名刺には『博士(理学)』と記されていて、その経歴は輝かしいのかもしれない。
「よく世話していただいてますね。暴れて怪我することだけが心配ですが、今はこの子も落ち着いているようです」
保護した渡り鳥の様子を確認しながら、樋口さんはそんな風に言った。
「遺骸の方は保存していただいているでしょうか?」
「遺骸?」
「ええと、すみません。死骸ですね、渡り鳥の」
遺骸、と樋口さんは表現する。それだけ鳥が好きなのだろう。だけど、ここでの彼には、私はあまり言えることがなかった。
「すみません。冷凍保存できるような施設がないんです。処分されたはずです」
「分かりました。……発見現場には死骸とか、痕跡は残っていますか?」
「どうでしょうか。行ってみないと分かりませんが……」
そう言ってから、私は次長の方に目をやる。正直この仕事は、自分の領分なのかどうかが怪しい。だけど、鳥の死骸を処分してしまったことは、樋口さんに対しては後ろめたかった。
「いいんじゃないの。案内してあげて」
次長はそんな風に答える。
最初のコメントを投稿しよう!