850人が本棚に入れています
本棚に追加
恋に落ちて
カランコロンとドアベルが鳴ると、重厚な扉が遠慮がちに開いた。
「いらっしゃいませ」
静かな落ち着いた声は、店のマスター。匠を見て小さく微笑むと頭を下げた。
こんなお店に来た事が無い匠は、ドキドキしながら、とりあえずカウンター席に座る。
「初めてですね。有難うございます」
ナイスミドルのマスターに声を掛けられ、おしぼりを差し出される。
木目調のカウンターに暗めの照明が、落ち着いた雰囲気を醸し出している。L字型のカウンター席は、独りでくる客を沢山案内出来る。二人用のテーブル席、多くても三人しか座れない様な店内の作りに、静かに飲みに来る客が多い事を想像させた。
「はい」
心臓がバクバクして、何処を見ていいか分からない。何か注文しなければ、と思うが分からなくて緊張が頂点に達した時、
「匠?」
匠に気付いた涼が、離れた場所から近付いて来た。
涼さん!と思い、張っていた緊張の糸が切れ、嬉しくて泣きそうになる。
「お知り合い?」
マスターに訊かれた涼が「まぁ」と少し顔を引き攣らせた。
「久し振り」
「は、はい、お久し振りです。柚月さんからお店の場所を聞いて」
久し振りに会った涼は変わらず美しくて、仕事の時のオールバックの髪型がセクシー過ぎてドキドキしながら、嬉しさを隠せない匠は満面の笑みで答えたが、涼の顔が険しい。
「柚月と連絡取ってんの?」
匠がシェアハウスを出て、一ヶ月程が経つ。未だ柚月と連絡を取っていた事を知り、面白くない。
「匠の荷物そのままだけど、どうすんの?早く持ってけよ」
とは言ったものの、匠はまだ家賃を払っていて、完全に契約を解除している訳では無い事は知っていた。
「すみません。あの、自分、やはり戻ろうかと思って… 」
「は?あそこに?無理だろ」
「あの、だから涼さんの許可を頂こうかと思って、会いに」
「なんで俺の許可がいるんだよ、関係ないだろう」
そんな風に匠に言われて、不愉快極まりない顔をした。
「また怖がって、ご迷惑をお掛けするかも知れないので」
「だから無理だって言ってんだろう、やめとけ」
そこまで言った時に、マスターが涼の耳元で何かを囁くと、奥に目を遣り頷いて匠の前から離れる。
「まぁ、好きにすれば。俺には関係ない」
奥を見た涼の視線を辿り、匠も目を遣ると綺麗な女性が一人でカウンターで飲んでいて、もう長い時間そこに居る様に見えた。
女性の傍に近付くと、満面の笑みで涼を見て、嬉しそうに静かに会話をしている。涼も、匠に初めて出会った日の様な微笑みを女性に送っていて、ズキンっと酷く胸が痛んだ。今はあんな微笑みをくれない。
「ご注文は?」
マスターに訊かれて、ハッとする。
「ディ、ディタモーニはありますか?」
初めて涼に作って貰ったカクテルを思い出して、訊いてみる。ニコリと笑い、かしこまりました、と言われてホッとした。
カクテルを待つ間に気持ちも落ち着いてきて、店内を見回す余裕が出来る。
涼の他にもう一人バーテンダーがいて、その人は初老の男性を相手に酒を作っている。テーブル席には三組ほどの客と、カウンターにはあと一人、女性客がいた。
「すみませんね、せっかく来て頂いたのに」
マスターが申し訳なさそうに言いながら、カクテルと小さくお洒落な器に入ったミックスナッツを差し出した。
「いえ、自分も急に来たので」
「涼がお目当てのお客様が多くてね」
と、カウンター席に座る、もう一人の女性客にマスターが視線を移す。
涼は尋常でなくモテる、という話しは柚月から聞いていた。
二週間前 ──
「お待たせお待たせ、ごめん待ったろ」
息を切らして柚月が小走りでやって来た。
最初のコメントを投稿しよう!