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「いえ、大丈夫です。お忙しいのにすみません」
「何だよ、匠から連絡なんて嬉しいじゃん。忙しくたって来るよ」
ニコニコと笑って柚月が応える。
戸籍上は女性で、中身と見た目は男性のトランスジェンダーの柚月。体つきでふと女性を思ってしまう時はあるが、話しをしていての違和感はまるで無い。
「どう?元気してる?」
「はい、柚月さんもお元気そうで」
そんな風に、かなり久し振りっぽく話しをしたが、匠がシェアハウスを出てからまだ、二週間しか経っていない。
「で、何?どうした?」
笑みを崩さずに柚月が訊く。
「あの、やはりシェアハウスに戻りたくて」
柚月の笑顔が崩れて、真顔に近くなる。
「俺は大歓迎だけど、涼の事は?平気なのか?」
「は、はい… あの、自分が結婚する事って」
「なんとなーくだけ、涼から聞いてる」
「やはりそれまででも、柚月さんと涼さんと一緒に居たいと思いまして」
三人の生活が楽しかった。実家に戻り、このまま結婚するのかと思うと人生がつまらなく思えた匠。実際つまらない。
親と顔を合わせれば結婚の話しばかりで、年内には匠夫婦の居住部分の増築工事を始めると、図面を広げこれからの事を愉しげに話す母親は、孫が出来るのが楽しみだと浮かれる。うんざりだった。子どもなど出来る筈などない、匠はそう思ってため息の毎日。
小雪さんのことは正直怖いけれど、柚月と涼と一緒に居たい、何より涼の傍に居たいと、そう思っている自分に匠は気付いている。
「結婚はいつ?」
「来年の夏になるまでには、と話が進んでいます」
「一年、くらいか… 」
柚月が頰杖をついた手に顎を乗せて匠を見る。
「小雪さん、匠の事を悪く思ってる訳ではないと思うんだよね。」
「そ、そうなん、ですか?」
恐々と訊く。
「変な奴っていうか悪い奴は最短で、玄関入ってすぐにアクション起こしたから、小雪さん」
そう言いながら笑っているが、匠には到底笑える内容ではない。
「でも、自分にも小雪さんは… 」
匠の部屋に現れた時の事を思い出し、少し縮こまる。
「うーん、そこが分かんないんだよね。悪気は無かったと思うけど、匠は怖いよな」
「はい… 」
それでも頑張りますので!と鼻息を荒くする匠に、柚月が笑って頷いた。
「ちゃんと助けるから、って言っても中々家に居ないけどね、俺」
涼の所に行ってみる?と訊かれて躊躇いながらも、大きく頷き、涼の店の名刺を貰った。
「涼もさ、匠に何でそんな事したのか俺にも全く分からないんだよ。アイツ尋常じゃなくモテるから。匠にちょっかいなんか出さなくても、充分間に合ってる筈なんだけどな、気にするな、って言っても無理かも知れないけど」
許してやって欲しい、みたいな言い方と顔を柚月がするので、いえいえ大丈夫です、と手を振った。
悩みに悩んで、迷いに迷って、涼の店に漸く来る事が出来たのはその二週間後の今。
離れた場所で女性客を相手に、笑う涼の笑顔が切な過ぎた。
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