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新たな一歩
その日、匠は父親から呼び出され実家へ向かった。
思い返せば、暫く実家へは帰っていない匠。弓道の練習は顧問の先生の許可を貰い、高校の部活動で練習したり、生徒を指導したりしていて実家の弓道場には何ヶ月も行っていない。その事を咎められるのだろうかと、匠は決心を固くし気持ちを引き締めた。
「久しくご無沙汰しております」
父親と息子の会話だと思うと堅苦しいが、匠にはこれが普通だった。
「うん、まぁ座れ」
父親の書斎に入り、座卓の前に座るよう促され、一度頭を下げると父親の前に正座した。
「んー、結婚の話しだがな、先方が一方的に断ってきた」
えっ!? 何という朗報!
と、匠は喜んだが、今ここでそれを出す訳にはいかず、
「何故でしょうか?」
とりあえず、そう問うてみる。
理由なんて別にどうでもいいし興味が無い。結婚が無くなるなら、こんなに喜ばしい事はない。
「それが理由は何も言わない」
父親の顔は激しく憤って、怒りを消化出来ない様だった。
「縁が無かったのでしょう、仕方ないです」
柔らかに匠が言うが、納得のいかない顔のままの父親。
しんみりとしてみせたが、匠の心の中は万々歳の祭り騒ぎ、盆と正月が一気にやってきた様な心持ち。
早く帰って涼に報告したい。
「弓道はやっているのか?」
実家の弓道場に久しく行っていない。
「はい、高校の部活動を指導しながら、自分も練習しております」
「お前は此処の道場を継ぐのだから、部活動などに関わるのはいただけないぞ」
かなり不満気に言われ、やはり、その話しも出たかと思う匠。もう、実家の道場を継ぐつもりはなかった。
道場を継ぐのなら、やはり家庭を持たなければ、跡継ぎを作らなければならない。この先もずっと涼の傍にいたいと思う匠は、道場を継がない意志を告げる。
「自分は、中条の家を、道場を継ぐつもりはありません」
「なにっ!? 」
匠の父親が、これ以上ない位に怒りを露わにすると、腰を上げた。
「道場は、弟の弦に譲ります」
匠には歳の離れた、高校生の弟がいる。
「弦には、匠ほどの腕がない」
匠は幼い頃から両親の言う事をよく聞いて、親の言う通り望む通りに生きてきた。そのお陰か、弟の弦は好き放題に生きていて、いつも羨ましく思っていた匠。
涼と柚月と暮らす様になり、こんな人生があるのかと泣きたくなる程、楽しくて幸せと思う毎日を手放す事なんてもう出来ない、何より、何があっても涼と離れたくない、そう強く思う匠だった。
「鍛錬、修練すれば弦も、きっと良い弓道士になると思います」
「匠っ!」
父親が呼び止める声を遮り、匠は深く頭を下げて書斎を後にした。
早く涼に会いたい!
匠は一目散に走り出した。
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