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特急に二時間乗って、山の中の駅に降りた。
一度面接に来たので、勝手は知っている。
指示された通り、列車の中から瞬は会社に連絡していた。面接のときに会った重役さんが、自分で車を運転して、駅まで迎えに来てくれた。
「角倉さん、よくお越しくださいましたね」
「お疲れさまです。お世話になります」
瞬は車に乗り込んだ。
重役さんは新井と言った。社長室長だそうで、要は全国を飛び回る社長の秘書をしているらしい。
「まあ、社長はほぼ社にはいませんので、留守番ですよ。あはは」
そう言って新井は笑った。
これから瞬が勤める会社は「(株)ハタノ」。フード・サービスやら、アグリプロダクトやら、ファクトリーやら、インターナショナルやら、社名の下にさまざまな部局がぶら下がっている。そんな中で、地味に和食の修行をしてきただけの瞬に、何ができるのか。
だが、瞬を望んだのは向こうなのだ。瞬は望まれてやってきた。ここで積める経験を積んで、キャリアアップにつなげられたら御の字だ。
「お忙しいんですねえ、やっぱり」
「ええ、そうですね。社長もお父さまの事業を継いでから、いろいろ新しく始められたことがありましてね。何しろ食品産業は、変化が早いですし、世界とも戦っていかなくちゃなりませんしね」
二代目社長か。三代目かもしれない。どこかで聞いたような話だ。
「ま、本質的に、『自由な』方ですんでね。好きに飛び回ってらっしゃいますよ」
(へえ……?)
新井の声にあきれたような響きを聞いて、瞬は横目で社長室長の表情を見た。新井の目は笑っていた。奔放な若社長を許容して、そのフォローに徹しているのだろう。歳の頃は三〇代後半か。
その社長には、人望があるようだ。
車はパッチワークのような丘を抜けて走った。ところどころに牛が草を食んでいた。
「さ、着きましたよ」
開けた農場脇の社屋に車が停まった。
カバンを手に、瞬は新井の後をついて階段を登った。
途中すれ違った社員が、
「お帰りなさい。社長は今不在ですよ」
と新井に声をかけた。
「またですか。もう、困ったもんだ」
と新井はぼやいた。
「こちらで少し休んでいてください。社長を探してきます」
「はあ」
瞬は新井に通された部屋をぐるりと見回した。
明るいベージュの壁に、穏やかな茶の応接セット。奥は一面ガラス窓で、農場がよく見える。窓の手前に大きな机がひとつ置かれている。
してみると、ここは社長室なのだろう。
緊張する。
社長は多分、ハタノさん。
さっきの新井さんが、あきれながらも尊敬して仕えているところを見ると、新井さんより少し歳上、四〇代くらいなのかな。
(まあ、誰が社長でも、俺みたいな下っ端の仕事は変わんないよね)
早く面通しを終えて、宿舎に入りたい。自分の住む環境を確認したい。
瞬は柔らかなソファの上で身じろぎした。
バタバタバタと扉の外で物音がした。
「社長ー!」
新井の悲鳴がして。
バタン!と勢いよく扉が開いた。
「社長っ!?」
新井が肩で息をしながら廊下を歩いてくる。
瞬は思わず立ち上がっていた。
扉を押さえて仁王立ちになっていたのは。
懐かしい、瞬の熊さん。
伸幸が、グレーのスーツをパリッと着こなして立っていた。
「よく来たな」
伸幸は扉から手を離した。
新井の鼻先で扉は閉まった。新井は入ってこなかった。
「待ってたよ、瞬」
伸幸は一歩一歩じゅうたんを踏みしめ、瞬のところへやってきた。
伸幸はポケットからハンカチを取りだした。
かいがいしく、伸幸は瞬の世話をする。瞬の頬から涙をぬぐって、伸幸は瞬の瞳をのぞきこんだ。
「……だから、連絡くらい、しろよな」
すごい鼻声になっているのが悔しい。
「ごめん」
伸幸は瞬の頭を優しくなでた。
こんなくらいでほだされてなんて、やらないぞ。
瞬は唇をかんだが。
ふかふかのソファで、伸幸に抱かれるように頭をなでられて。
瞬は目を閉じた。
うまいもの食って、好きなヤツと寝て、それで「生きて」いくんじゃないの。
「瞬?」
瞬はもう涙をこらえなかった。
「また限界料理を作らされるのかよ。うんざりだな」
小さな声でそう呟いて、瞬は伸幸の胸に寄りかかった。
「そうだよ。瞬はこれからずっと俺のために、その腕をふるうんだ」
「くそ。ようやく逃れられたと思ったのに」
「残念でした。俺は瞬を手放したりしないよ」
伸幸は瞬の身体に腕を回し、ギュッと強く抱きしめた。
「今夜のご飯も一緒に食べよう」
(今夜のご飯も、一緒に……)
瞬は、ただ黙って、こくりと小さくうなずいた。
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