699人が本棚に入れています
本棚に追加
「いつでも、戻ってきていいからね」
盛りつけ班チーフの長谷川は、涙ながらにそう言ってくれた。
「元気でね!」
「就職先からお弁当注文して」
「誰か急遽休んだときには電話するから、手伝いに来てよね」
「いいひとと出会えるといいね」
「彼氏できたら、見せにおいで。おばちゃんたちの人生経験で判断してあげるから」
おばちゃんたちの遠慮のない励ましを聞くのも、これが最後と思うと感慨深い。
「みなさんね……。いつもいつもありがとうございます。次のひとには、そういうこと言っちゃダメですよ。冗談になりませんからね」
大した荷物も置いていなかった更衣室のロッカーを空にして、瞬は振りかえった。
「みなさん、お世話になりました」
軽口を利いていたおばちゃんたちが、しんと静かになった。
瞬はぺこりと頭を下げて、更衣室を後にした。
サブチーフの武藤が、瞬の後をついてきた。
「瞬くん、次の仕事、決まってるの?」
「いいえ、まだ。少しだけど蓄えもあるので、じっくり探してみますよ」
「そう」
出入り口の扉の前で、瞬は立ち止まった。
「華さん、今まで、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったわ。死人みたいに土気色をしたあなたが、少しずつ生気を取り戻して、生きてる人間に戻っていく過程を見ているのが。とくに骨と皮だったところに、少しずつ肉がついていくのが」
瞬は苦笑した。
「華さぁん、それはいくらなんでも、趣味悪くないすか」
武藤は笑わない目で瞬を見た。
「傷ついて逃げてきても、身体と心を休めれば、ひとはまた回復して、そのひとの人生に帰っていける。わたしも子供がいるから。わたしも妊娠と出産で一度はキャリアを諦めかけたけど、わたしも子供も、もしこれから何かあっても、少し休んで、回復したらまた戻ればいいんだって。何度でもチャレンジできるんだって」
武藤にしては珍しく長いトークだった。
そこまで一気にしゃべり、武藤は肩で大きく息をした。
「華さん……」
「瞬くんは、それを教えてくれた。いいえ、そんなこと、誰でも知ってはいるのよ。実際にそれを目撃する機会がないから、信じられないだけなのよ」
武藤は首を傾げて、「ありがとう。わたしにそれを見せてくれて」と笑った。瞳に涙がにじんでいた。
瞬はそれを素直に「キレイだ」と思った。
「……なんか、よく分かんないすけど。お役に立ったならよかったです」
武藤は右手を差しだした。
「『優しい姉さんがいたらいいな』と思うときには、いつでも連絡して」
瞬はその手を握りかえした。
「はい。そうします。お元気で」
通りを渡り、瞬は振りかえって手を振った。
武藤は黙って手を振ってくれていた。
「よし。これでいいかな」
瞬は空っぽになった部屋を見回した。
荷物は荷造りして早い時間に運送屋に渡した。
身の回りの少しの品をカバンに詰めて、ほんの数ヶ月住んだこの部屋を出ていく。
瞬はガチャガチャとつかえがちのカギを回した。
とうとう油を差さずに終わった。
昨日不動産屋が明け渡しの確認に来た。最後までテキトーな管理だった。不動産屋に指示された通り、手渡された封筒にカギを入れ、郵便受けにポトリと落とした。
これで、瞬はもうこの部屋に入れない。
寿司屋をクビになり、抜け殻のようになってここにたどり着いた春。
何も考えないようにしてバイトを探し、早朝弁当屋へ通うようになった。
朝早いのは慣れていた。寿司屋と違って夜早く眠れるのでラクだった。
そしてある日。
カギを開けると、背後から大きな熊に抱きついてこられて――。
熊はいつかまたこの部屋に現れるのだろうか。
そのとき、この部屋には誰か住んでいるんだろうか。
熊の名を口の中で呟きそうになり、瞬は慌てて首を振った。
(『誠さん』は、どんな気持ちでこの部屋を出ていったんだろう……)
そこのところは、瞬には分からない。伸幸は何も言わなかった。
連絡のつくマトモな彼氏ができて、ワクワクと楽しい気持ちで引き払ったのかもしれないじゃないか。
瞬はカバンのヒモを握りなおして、駅へ向かった。
午後のうちに、新しい職場へ着かなくてはならない。
今日はこのまま顔合わせだ。そのために一張羅のスーツをクリーニングに出して、シワを伸ばしておいたのだ。
弁当屋のおばちゃんたちは、瞬のスーツ姿を見たら、何と言うだろう。
また口々に、失礼なことを言うに違いない。
それなりに居心地のよい職場だった。
次の職場にも、そのくらい馴染めればいいなと瞬は思った。
(あ、でも、自分の性志向までは、別に理解してもらわなくていい)
そんなにバレバレにしていたろうか。おかしいなあと瞬はまた首を振る。
あれは悪意のない励ましだったからよかっただけで。
武藤の言ったように、瞬にとって、あそこは人生の休息だったから。
人生の本筋で、無遠慮にいろいろ干渉されるのは、勘弁だ。
いくつか登録した中で、ひとつの転職サイトから瞬にすぐオファーが来た。
「技術指導」の名目で、経験者限定の求人だった。
詳しい業務内容はイメージできなかったが、勤務時間は九:〇〇~一八:〇〇、給料も悪くなかった。勤務地は農場併設の田園地帯だったが、宿舎もある。
行ってみるとキレイなオフィスで、スタジオみたいなキッチンもあった。面接してくれた重役さんもまだ若くて、会社自体が若々しい感じだった。
「今、社長は遠方の農場へ行っていて留守してますが。『よろしく』と言いつかってます」
そう言って重役さんは済まなそうに瞬に頭を下げてくれた。
瞬がこれまで働いてきた先は、どこも上下関係の厳しいところばかりだったので、これには瞬も度肝を抜かれた。
一度、そうしたホワイトな職場で働く経験をしてもよかろう。
瞬はその場で入社を決めた。
(どうせ研修施設で、専卒の見習いコックにケイコをつける仕事だろう)
専門学校を卒業したてなら、二〇歳くらいが主で、後は転職組がチラチラ混じるくらいか。
今の自分の年齢なら、多分やれる。大丈夫だ。
特急にゆられ窓の外の景色をながめながら、瞬は心の中でそう思った。
面接のときには、「そのうち商品開発や企画も」と言われたが、実際にその話が出たときに考えればいい。
二ヶ月くらいの間に、ほとんど感じなかった味が、七割ほどに回復したのだ。
のんびりした自然の中で仕事をすれば、さらによくなるかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!