1、ある日バイト終わりに熊男が現れた!

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1、ある日バイト終わりに熊男が現れた!

 ひどい目に遭った。 (米シフトは無理だって、あんなに言ったのに)  瞬は事務所の端に置かれたソファから、ゆっくり、ゆっくり身体を起こした。 「お、角倉君、動けそうかい?」 「はあ……何とか」  そういつまでも寝ていられない。時給にもならないのに。    だが、素早い動きはまだ無理そうだった。胃の辺りの休火山が不穏な振動をしている。 「瞬ちゃん、ごめんねえ。あんた『米はヤダ』って言ってたけど、まさかそんなにアレなんだとは思ってもみなかったわあ」 「そうっすよ。ホントにアレなんすから」 「ごめんごめん」  弁当屋の事務所。事務机をのぞき込んで、シフト責任者の課長と瞬の所属する盛りつけAチームチーフの長谷川文子が相談していた。 「明日っからは、アンタを米飯チームに入れなくてすむようにしてやっからね」  長谷川の明るい声に、瞬は弱々しく笑った。 「頼みますよ」  ここでは昼の弁当を大量出食するビジネスを展開している。  弁当を出し終わったこの時間、南向きの事務所はポカポカ陽気が満ちている。  米飯盛りつけのチームの主婦バイトが、子供の病気で休んでいる。  その穴を埋めるため、各チームから応援を出しているのだが、日数が長くなるにつれシフトのやりくりが難しくなってきた。 「でもさ、米の飯が炊けるニオイで吐いちゃうなんて、まるで『つわり』だねえ」 「はあ」  長谷川は明るく「『つわり』じゃしょうがないもんねえ。分かるよ」と続けた。  からかっているのか、言葉どおり同情しているのか。多分そのどちらもだろう。  瞬は食べものが苦手だ。  食欲は起こらないし、最近は何を食べても味がしない。「砂をかむよう」という表現があるが、まさにそれだ。  食えなくなって、バイト前には機械的にゼリー飲料などを流しこんだりもするが、それを含めても一日一~二食だ。  感じないだけならまだマシだが、臭いは部分的に感知する。例えば今日のように米飯の臭いでは気分が悪くなる。 「大体からして、瞬ちゃんみたいに手の速いコに米飯を盛りつけさせるのが間違ってたのよね。もったいないことしちゃったわよ」  長谷川は瞬の手際を評価してくれている。  新入バイトが始めに入れられるCチームから瞬を引きぬいて、勤続五年十年がひしめくAチームに抜擢したのはこの長谷川だった。  決められたとおりに弁当のおかずを詰めていく作業だ。確かに、瞬の作業は速く、そして正確だった。昨日今日入ってきたバイトとは思えないと驚かれた。  瞬は深呼吸した。みぞおちに手を当ててみた。  部屋までの徒歩五分、何とか持ちこたえられそうだ。 「お先に失礼します」 「はいよ、ゆっくりお休み」  瞬は事務所を後にした。  瞬はカギをかけ忘れたのだと思った。  弁当屋から戻って、建てつけの悪い木造アパートの渋いドアが、ほんのわずかだけ浮いていた。  盗られるようなものは何もないからいいようなものの。  首をひねりながら部屋に入った瞬の視界を、大きな黒いものがおおった。 「会いたかった、誠~~~~!!」 「うわああぁっ!」  熊のような何かに飛びかかられ、瞬は開いたドアに背中を打ちつけた。  ドアは勢いよく外へ開き、瞬は三和土に尻もちをついた。  熊のような何かが叫んだ。 「って、お前ダレ!?」 「こっちのセリフだっ」  瞬は自分にのしかかった熊にすかさず怒鳴り返した。 「あんたこそ誰だよ! どうやって入った。警察呼ぶぞ」  誠って誰だとか、三和土に思い切りすったズボンの尻は破けてないかとか、この界隈は治安がよくないと聞いていたがここまでだったのかとか、いくつもの考えが瞬の脳内をピカピカと駆けめぐるが、そんなあれこれがすべて吹き飛ぶような、男の外見。 「ってかあんた、キタネエなあ。そんな格好でひとん家に上がりこんで何してんだ」  熊は辛うじて人間だった。  多分、下はデニム、上はチェックのシャツをこれも多分予想だがもとは白かっただろうTシャツの上に羽織っている。 「多分」というのは、服のあちこちが泥まみれで、元の色合いがよく分からなくなっているからだ。  泥は乾いて粉が吹いている。この扮装で室内に上がりこまれたなんて。  冗談じゃない。瞬は掃除をめったにしないのだ。  泥汚れを持ち込まれたら、次の掃除日程を繰り上げなければならないではないか。  衣服だけではない。クセのある髪はこてこてと脂で固まり、ヒゲがボーボー伸びて、職務質問をかわして街中を移動してきたことが信じられない。 (アヤシすぎる……) 「ここの住人は? 誠はどこへ行ったんだ」 「だから、誠って何だよ。ここに住んでんのはオレ! ひとり暮らし! いいから退けよ!」  誠とやらがここにいないことを悟ったあたりから、熊男の腕から力が脱けた。  瞬はようやっと熊男を押しのけて立ち上がった。  ポケットからスマホを出した瞬に気づいて、熊男が再び瞬の腕に取りすがった。 「警察だけはカンベンしてくれ! 俺は犯罪者じゃない。説明するから。全部、全部説明するから」  いい歳をした男が、痴情のもつれ的な何かでトラブって警察を呼ばれたら立つ瀬がなかろう。  瞬はまず話だけは聞いてやって、110するかどうかその後決めることにした。
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