6、味覚の戻る日

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6、味覚の戻る日

 伸幸は変わらず、帰ってきたりこなかったりした。  瞬は気にしないように、淡々とひとり暮らしを続けている気分ですごそうと努力した。  だが。 「伸幸さん!」 「んー? どした、瞬」 「『どした』じゃないよっ!」  瞬は伸幸がテーブルにドンと置いた荷物を開いて、悲鳴を上げた。 「またヘンな組み合わせ持ってきてー。何だよこの、タコとトマト(大量)……!!」 「別にヘンじゃないだろ、タコとトマト。両方とも赤いし」 「色かよっ」  バイトを終えて帰ってきたと思えば、またこのありさまだ。  屈みこんで中身を調べる瞬の腰に、伸幸は楽しそうに腕を回した。 「ほら、セロリもあるし。あとこの卵。平飼いなんだよ。受けとったときは、まだほかほかしてる感じで」 「してねえよ。洗浄後だよ」  瞬の手が止まった。  伸幸の体温を背に感じて。 「瞬……」  伸幸は瞬の耳を甘くかんだ。瞬は首をふった。 「離せよ」 「ヤダ」  伸幸の唇が瞬の首を下りていく。  瞬の背骨がぞくりと震える。  何日ぶりだろう。 (六日ぶりだ)  瞬を甘やかす伸幸の唇。優しくて意地悪な指。そして。 「ダメ!」 「瞬」  瞬は伸幸をキッと振りかえった。 「浮かんだ。伸幸さん、急いでスーパー行ってきて。小豆と、黒こしょうと、それから……」 「はいはい」  伸幸は瞬から腕を離し、瞬の頭をポンポンと叩いた。  瞬が思いついた食材を、伸幸が忘れないようメモしていく。書きおわって、伸幸はポケットにそのメモをしまった。 「じゃね。頼んだからね」 「ほーい」 「急いでね」 「行ってきまーす」 「じゃーん!」 「おおっ」  瞬は鼻を得意そうにヒクヒクさせて、テーブルに今日の料理を並べた。  伸幸は嬉しそうにくんくんと香りをかいだ。 「おー。うまそう。タコはトマトで煮なかったんだ」  瞬は伸幸の向かいに座って箸を取りあげた。 「うん。トマトは別に、今日じゃなくてもいいじゃん。日持ちするでしょ」 「そうだねえ。瞬はかしこいね」 「伸幸さん……俺のこと、バカにしてない?」  瞬は頬をプッと膨らませた。  伸幸はタコを口に入れ、目を輝かせた。 「うまいっ」 「そぉ?」  瞬はまんざらでもない。自慢そうにまた鼻をヒクつかせる。  タコより消化のラクそうな、セロリと卵の黒こしょう炒めに箸をつける。ただの塩味の炒めものだが、セロリは軽く下ゆでしておくこと、こしょうをしっかり利かせることがコツだ。香りづけに酒を多めにふってある。  伸幸が呟いた。 「この味……『にし村』の『岩だこの小倉煮』を思いだすな」  瞬はパタリと箸を置いた。 「伸幸さん、知ってるの」  伸幸は目を閉じた。 「ああ。以前、食べたことがある。ほどよく優しい甘みがあって……醤油の香りが引きたつ」  瞬は座りなおして膝に拳を置いた。 「俺、昔……勉強に行って食べた」 「瞬?」 「金ないからさ。正直に『勉強させてください』って一品だけ、それと申し訳にビールを頼んで」  伸幸は黙って聞いている。 「味は分かんなくなっても、手は覚えてたんだ」  瞬はうつむいたままふっと笑った。 「再現しようと、何度も作ったからな」  伸幸はゆっくりと言った。 「やっぱりな」 「…………」 「瞬の料理の腕前だよ。味の分からない人間が、こんなうまいもの、手加減だけで作れるわけがない」 「伸幸さん?」  伸幸はタコをひと切れ、箸でつまんだ。 「ちょっと食ってみ」  伸幸は腕を伸ばして、瞬の口許へタコを運んだ。 「うん。食べるよ。食べるから」  瞬は顎を引いてそれから逃れようとした。 「いいから。ほら」  伸幸は催促するように箸の先をふる。  「ムダだって」  イヤイヤをする瞬の手首を伸幸はつかみ、引きよせた。  瞬は逆らえず、伸幸の身体に近づいた。 「口開けて」  耳に伸幸の低音ボイスを吹きこまれて、瞬はもう逆らえなかった。瞬の唇がゆるんだすきまに、伸幸はタコを放りこんだ。  醤油の香り。  小豆の粒子。  甘み。出汁の味。それらがタコの香りとよくからまって。  瞬の舌に、昔覚えた味がよみがえる。  これは。  ……味覚なのか?   記憶か?  瞬の頬につーと涙がひと筋流れた。  伸幸は瞬の手首を握ったまま、箸を置き、瞬の頬を指でぬぐった。  瞬は笑おうとした。伸幸があまりに真剣な顔をしていたから。 「の……」  その名を呼ぼうとした。「もう大丈夫だから。自分で食べるよ」と言おうとして。  だが。 「う……っ」  瞬ののどがひくと鳴った。  伸幸の顔が近づいてきて。  瞬の肩にその重さが載る。  瞬は逆らわず、伸幸の背に腕を回した。  伸幸の唇が、瞬のまぶたに、頬に、唇に触れた。  伸幸のキスは夕食の味がして、瞬は今自分のしていることが、食事か色事かあいまいになるのを感じて。  そして。  唇が離れた。 「伸幸さん……、腹減ってたんじゃなかったの?」  瞬は伸幸の体重を感じながら、照れて笑った。  伸幸も笑った。 「ああ。減ってた減ってた」  伸幸は瞬の鼻先にチュッとキスして身体を起こした。
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