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7、また、堕ちちゃった
「瞬ちゃーん。あんた、あの彼氏と最近ラブラブなんでしょ」
「はあ?」
朝早く弁当屋の入り口をくぐるなり、おばちゃんのひとりに背中をパチーンと叩かれた。
痛い。
「何のことですか」
更衣室まで歩きながら、またおばちゃんが言った。
「ほら。こうやって叩いても、どっしりして、前ほどよろめかなくなってるよ」
ほかのおばちゃんも参加した。
「肉付きよくなってきたねえ、瞬ちゃん。幸せなんでしょ」
「だって、前はホントにガリガリだったもんねえ。マトモにモノを食べられてなかったんじゃないの?」
「今じゃ顔色もすいぶんいいよ。よかったねえ、瞬ちゃん」
本当に、よく見ている。
「みなさん、さすが年の功ですね。だてに子育て、孫育てしてませんよね」
瞬は素直に脱帽した。
「長谷川チーフ! ふーさん、いる?」
「あ、課長」
事務所の扉をバタンと開けて、シフト責任者の課長が転がりでてきた。
「はーい課長、いますよー。ここです」
動じない長谷川が更衣室から顔を出した。
「チーフ、大変大変。米飯チームの森崎さんが、夕べ救急車で運ばれたって。盲腸だって」
「えっ」
子供たちが夏休みに入り、出勤できるパートさんが減っていた。代わりに学生バイトのシフトを増やせればよいが、学生さんたちは地元へ帰省したり、急に来られなくなったりと安定しない。
そんな中の一名減。
昨日今日と、大きな学会だか何かから弁当を受注できて、普段よりも二、三割注文数が増えている。
「困ったねえ。普段よりも二人も三人も少ないってのに」
「だから課長、いい加減そろそろ米飯のとこだけは機械化しないと」
「いやあ、そりゃそうだけど、今は今日の弁当の話だよ」
大変だ。
瞬にも事態の重大さがよく分かる。
視界のすみで、厳しい表情をした武藤が引き受けようと口を開くのが見えた。
瞬は廊下を進みでた。
「じゃあ、俺、米やりますよ」
「ええっ!?」
長谷川がびっくりして振り向いた。
課長も「か、角倉くん……大丈夫なのかい?」と目を白黒させる。
瞬は白衣の上に使い捨てのエプロンをキリッとしめた。
「はい。多分、大丈夫です」
今日はおかずチームだってギリギリだ。そんな中で、サブチーフの武藤華が抜けるのは絶対に避けるべきだ。
長谷川が手袋をはめる前の素手で、同じく瞬の素手を握りしめた。
「瞬ちゃん……、『つわり』はもう明けたのかい?」
「……はい」
瞬は照れくさくなってちょっと笑った。
「よーし! 行こう」
長谷川チーフは全員に号令をかけた。
気合い充分。盛りつけ全チーム、作業場へ向かった。
はあ。疲れた。
作業を終え、瞬はよろよろと従業員通用口から外へ出た。
真夏のカンカン照りの正午過ぎ。
疲れた瞬には、めまいがしそうな気温だった。
目をつぶっても、米粒の白い輝きが消えない。
(慣れない作業は、やっぱ疲れるなあ)
おかずは詰める位置やケースが決まっていて、毎朝手加減をすぐ覚えられる。
だが、米飯は、決まった重量を量るのが難しい。
米飯チームリーダーの小松が細かくフォローしてくれ、「角倉さん、上手いね」と褒めてくれたが。
「瞬!」
表通りに、伸幸が迎えに来てくれていた。
「伸幸さん」
瞬は倒れこむようにそちらへ歩いた。伸幸はすかさず瞬の肩からカバンを外した。
おばちゃんたちの目は、もう気にしない。どうせみんなにもうバレてる。
伸幸は氷を充たしたビニール袋から、棒つきアイスをひとつ取りだした。
「冷たいよ。食べる?」
「うん」
スーパーで食料品を買ったついでに、暑さにゆだる瞬に差しいれようと思ったらしい。
伸幸は受けとった瞬のカバンを肩にかけ、瞬のためにアイスの包装を開けた。
「はい、どうぞ」
伸幸はアイスの棒を瞬へ向けた。至れり尽くせりだ。
「ありがと」
瞬はアイスを取りだして、むっつりと口に含んだ。何だかとても恥ずかしくって。
(照れるぅ……)
瞬は下を向いた。伸幸の足がゆっくりと歩きだした。瞬は無言であとを従いた。
「何買ったの?」
瞬の視界に伸幸のさげたエコバッグが揺れていた。
「ああ。今日は暑いから、スイカをね」
「スイカ!」
瞬は顔を上げた。
ひとり暮らしだと絶対に買わないものだ。
その前だって、ひとり暮らしとは言えない環境だったが、ここ何年も自分で買って食べてはいない。まかないでふるまわれるのも一シーズンに一、二度あるかないかで。
「久しぶりだ」
「だろ?」
伸幸は屈託なく瞬に笑いかけた。午後の陽射しがまぶしくて、瞬は数度まばたきした。
伸幸は楽しそうにまた歩きだした。瞬もまたそれに続いた。
「……今日はさ、弁当あるよ」
「あ、そうなんだ」
「うん。課長がね。珍しく『ありがとう』って二つくれたんだ」
「『ありがとう』?」
「うん。今日は俺、休んだひとの代わりで、米シフトに入ったから」
「へえっ! 大丈夫だったの?」
「うん。もうヘーキ」
「そうかそうか」
伸幸は嬉しそうにうんうんと何度かうなずいた。
「こんな暑い日に、瞬に台所仕事させたくないから、弁当はありがたいな」
「伸幸さんが何か作ってくれてもいいんだけど」
「うーん。そりゃそうだけど。俺、瞬ほど料理うまくないよ」
「いいよ。誰かが作ってくれるってだけで、ごちそうだよ」
しゃべっているうちに、あっという間に部屋に着いた。
伸幸はカギを取りだし、ガチャガチャ開けた。
「それ、昔々、ウチの母親が同じコト言ってたな」
「だろ? 日常的に食事係やってると、みんな同じこと考えると思うよ」
瞬が部屋のドアを閉めると、伸幸が身体を離したまま瞬の唇にキスをした。
「はは。暑いから、ハグはパス」
「ふふ。そうだね」
伸幸は、瞬を待つ間に自分の分のアイスを食べていたようだ。
瞬は伸幸のキスに応えて、顎を上げて口を開いた。
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