7、また、堕ちちゃった

3/4
685人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
「うまいっ!」 「うん」 「うまいっ。うまいよ、瞬」 「うん。分かったから」 「だって、ホントにうまいんだよぉ」 「ああ、ああっ、分かったっつのっ!」  Tボーンステーキのサーロイン側をむしゃむしゃ頬ばって、伸幸は大興奮だ。  その喜びように若干ひるんで、瞬は反対のヒレ側をひと切れ箸でつまんだ。  Tボーンステーキとは、真ん中の骨をはさみ、片側にいわゆるサーロイン、もう片方にヒレ肉のついた肉をその形のまま焼いた料理のこと。骨がちょうどTの形をしていることからの呼び名だ(瞬調べ。出典:ネット)。  多分、うまいのだろうと、分かる。  和牛の脂が溶け出したコクではなく、肉そのものの味と香りが熟成により深まっている。瞬の味覚は回復してきた。以前仕事で味を見ていたときの六、七割くらいまで来ただろうか。 「うまみの濃い赤身肉に、このソースもうまいなあ。これ、瞬のオリジナルだな?」  瞬はドキッとした。どうして分かっちゃうんだろ。照れかくしにわざと乱暴に言いすてた。 「ハスカップを使ったベリーのソースなんて、ネットのどこにも上がってねえよ。まあ、テキトーだ、テキトー」  そう言いながら、手放しで瞬をほめる嬉しそうな伸幸に、ドキドキしてしまう。頬が熱い。  伸幸は珍しく買ってきた赤ワインをひと口含んで、とろけそうな笑顔を瞬に向けた。 「本当に、瞬は料理の才能あるなあ」 「毎回毎っ回、ナンのチャレンジだっつー組み合わせを押しつけておいて、よく言えるな、そんなこと。才能ってより、おかしな鍛え方されてるんだわ」  瞬も珍しく、コップに何センチか注いだワインに口をつけた。ワインはあまり飲んだことがない。だから伸幸が買ってきたこれが、うまいのかまずいのか分からない。鼻に抜ける香りがやけに華やかで、熟成肉に合う……気がする。 「ハスカップをワインで煮て、……そして醤油も入ってるよな」 「よく分かるね」  瞬はコップに唇をつけたまま、上目づかいに伸幸を見た。  伸幸は瞬の腕をほめるが、伸幸の舌だって大したものだ。この間のタコの煮物のときだって。 (何モノなんだ、このオッサン)  ふらっといなくなる数日、伸幸がどこで何をしているのか。  ATMから下ろしたら、むぞうさにパンツのポケットに突っこむ万札は、どうして得ているものなのか。 「牛肉には、醤油が合うんだよなあ。昔どっかのマンガで読んだけど、その通りだったわ」 「オッサンの舌なんて、うんちく語っても結局最後には『おふくろの味』だろ。醤油ぶっ込んどきゃいいんだよ。日本人にうまいと感じるものはどれも和食なんだ」  瞬の言葉に、テーブルの向かいで伸幸がパタリと動きを止めた。  瞬は眉をひそめた。 「……なんだよ」 「瞬……それ、『真理』だ」 「はあ?」 「そうだよ! 日本人にとって、『うまいもの』ってのは和食なんだ」  瞬は首を振った。 「何を言ってるのかサッパリ……」 「瞬!」  伸幸はテーブルを回りこみ、瞬の肩を抱きしめた。 「な、なんだよ」  いきなりのことに瞬は驚き、床に落とすまいと慌ててコップをテーブルに置いた。 「瞬、君はやっぱり最高だ」  伸幸は回した腕に力を入れ、近づいた瞬に頬ずりした。 「の……伸幸さん?」  抱きしめられると胸がドキドキしてしまう。  瞬はおずおずと伸幸の背に腕を回した。  瞬が抱きかえしたのが珍しいのか、伸幸は嬉しそうにまた笑って、瞬の口の端にキスをした。  伸幸の唇の感触に、瞬は思わず伸幸のシャツを握りしめてしまった。  伸幸はしがみついている瞬に体重をかけた。  瞬の身体は素直に崩れおちる。 「あんた、腹減ってるんじゃなかったの? 肉、冷めると固くなるよ」 「うん……」 「肉だけじゃなくて、付けあわせもほめてくれない? ……ホウレンソウもさ、裏ごし器がないからマッシュできなかったけど、細かく切って生クリームで仕立てたよ」 「うん……」 「トウモロコシはソテーして、カマンベールをソースにして和えてみた。……ねえ、これってアリ? 俺、洋食は分かんないから教えてよ」 「うん……」 「『うん』『うん』って伸幸さん、俺の話聞いてる?」 「……聞いてない。だって瞬の身体、ピクピク可愛い動きしてる」 「あ……んっ」  瞬の言葉に生返事しながら、伸幸の唇は瞬の身体を下へと伝う。   もう、瞬の方がガマンできなくなっていた。  そうそういつもそっちを期待していると思われたくない。  だから瞬は、伸幸がしかけてくるまで、自分からは何もしない。  これはささやかな瞬の抵抗だ。 (抵抗……? 何に? 伸幸さんに?)  伸幸に誤解されたくない。  伸幸の望むことなら何でもしてしまう、そんな盲目的な恋人だと思われたくない。  どんなおかしな組み合わせでも、持ち込まれれば何とかうまい料理に仕立ててしまう。その腕を評価されたとしても。 (だからって、何でも許すと思うなよ)  恋人を喜ばせるためなら、何でもするような人間じゃない。  ほれているからって、どこまでも振り回されて、いいようにされるのはもうごめんだ。 (「いいように」……されてた、な)  近頃では思いだすこともなくなった「あいつ」。 「あいつ」は、瞬をいいようにした。  自分に都合のいいように、瞬のすべてを使いつくした。  朝早くから市場へやって仕込みをさせ、自分と職人たち全員のまかないを作らせ。そこまではいい。仕事だ。  瞬に新メニューを考えさせ、それを自分の手柄にして兄弟子たちに水をあけようとした。  先代の言いつけを瞬がこなせば自分がやったことにし、失敗を指摘されたら瞬に濡れ衣を着せた。  夜の営業が終わり、厨房を片付けているところをわざと呼びつけ、口答えしない瞬を部屋へ連れこんだ。  そこからはもうひと仕事だ。気分次第で飽きたら一〇分で床から放りだされる夜もあったし、二時間も三時間も執拗に責め立てられた夜もあった。作業着の襟から見えるところにわざと徴をつけられたり、瞬の身体の辛さなんて考えてくれたこともなかった。  社長気分で自分はいつまでも朝寝していられるが、瞬は仕入れで四時起きなのに。  厨房に重いトロ箱を運びこむとき、瞬の腰が崩れそうになると、職人たちは蔭で笑った。「ゆうべは三代目にずいぶんと可愛がられたんだろう」と。 (まったく……何で黙ってあんな目に遭わされていたんだ。ばかじゃないか)  ……好きだったんだと、思う。  瞬を「好きだ」と言ってくれた。  行き場のない瞬を、自分の家へ置いてくれた。  親とも疎遠になり友人もない瞬にとって、世界のすべてのようなものだった。  記憶をたどると、確かに「あいつ」はあいつなりに、瞬を愛していたのだと思う。  瞬の名前を呼んでくれて、笑いかけてくれていた頃もあった。  だが。  最後にはあっさりと捨てた。  いらなくなったおもちゃのように。 (伸幸さんは……)  伸幸を、そんな風にしたくない。  いくら気に入っても、熱情はいつか冷める。  気持ちが冷めたら、手のひらを返す。  それが人間だ。  来たり来なかったり、しばらく居ついたりまた数日見えなくなったり。  そんな今くらいの中途半端な付きあいを踏みこえたくない。  恋人のような関係になって、そしてしばらくして気持ちが冷めて、伸幸にあんな冷たい目で見られたら。  もうあんな思いはしたくなかった。  伸幸が豹変するのだけは、見たくなかった。  なのに。  伸幸のために身体を清め終わり、バスルームの扉にかけた瞬の手は。  腰の奥の深いところは。  期待に甘くふるえていた。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!