687人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
8、うまいもの食って、好きなヤツと寝て、それで「生きて」いくんじゃないの
長谷川に呼ばれて事務所へ行くと、そこには課長と、あまり見かけない女性がいた。
歳の頃は三〇代後半。化粧っけがなく、長い髪を後ろで結いあげている。今すぐ作業着を着て作業場へ入れそうないでたちだ。
「角倉くん、今日呼んだのはね、君に新しい仕事を引き受けてもらえないかと思ってね」
机の上で手を組んで、課長が瞬を見上げて言った。
「『新しい仕事』……ですか?」
盛りつけと仕込みのほかに、バイトにやらせる仕事はあるか? 弁当の受注オペレータなら、自分にできる気はしないが。
「ウチの売上がリピーターのみなさまに支えられてるのは、ご存じの通りです。だから、週に何度ウチのお弁当を食べていただいても、飽きられないよう、常に新メニューを開発・投入していく必要があります」
女性の方が口を開いた。
瞬はその通りだと思った。
瞬がうなずくと、課長が慌てた様子で後を継いだ。
「常務のおっしゃる通りだよ。新メニューが大切なんだ。そして、メニュー開発は、誰にでもできる仕事じゃあない。おいしいだけじゃダメで、ウチの設備で作れなくちゃならんし、原価率を適正な範囲に収めなくちゃならん」
瞬は課長に目を移した。何が言いたい?
次に瞬は長谷川を見た。長谷川なら、ほのめかしじゃなく、ハッキリ内容を伝えてくれる。
盛りつけ班チーフの長谷川は、背筋を伸ばしてこう言った。
「瞬ちゃん、あんたに、『新メニュー』開発の仕事はどうかって。これは大事な業務だから……分かるだろ?」
全然分からない。
瞬がきょとんとしているので、常務と呼ばれた女性が説明した。
「角倉さん、あなたに、ウチの企画開発部のメンバーに加わっていただきたいの。もちろん、正社員待遇よ。『情報漏洩しません』って書類にサインしていただかなきゃいけないし」
そう言って常務はふっと笑った。ジョークだったようだ。
「和食の調理をずっとやってきた角倉さんなら、いろんな料理を知ってるだろうし、業務として作る感覚も、原価計算も分かってる」
あっけに取られてものも言えずにいる瞬に、常務は一歩近づいた。
「お願いします。我が社の本格的な一員になってくださいませんか」
よろしくお願いいたしますと、常務は瞬に頭を下げた。
「瞬!」
通りの向こうで、伸幸が手を振った。
「お疲れ」
瞬が道を渡ってくるのも待ちきれないように、伸幸は足早に近づいてきた。
「お迎えごくろう」
照れくさいのを隠し、瞬は尊大にねぎらった。そして伸幸の肩に手を伸ばした。
「ありがたきしあわせ」
伸幸はふざけて瞬の手をとり、そこへキスするまねをする。
瞬はあわててひっこめた。
「職場にバレてるとはいえ、一応さあ。往来なんだから」
「はいはい」
伸幸はクスクス笑って肩をすくめた。
「伸幸さん」
「ん?」
ふたり並んで、夏の街路を歩く。照りつける陽光に、首のうしろがジリジリ灼かれる。
「今日仕事終わりに事務所に呼ばれてさ」
「うん」
「『常務』ってひとに、『新メニューの開発』をやらないかって言われた」
「えっ」
「正社員にするからって」
伸幸は足を止めた。
「すごいじゃないか、瞬!」
瞬が止めるヒマもかわすスキもないままに、伸幸は瞬の手を取り、握りしめた。
「おめでとう! 普段の仕事ぶりが評価されたな」
「あー」
瞬はさりげなく伸幸の手を外した。
「そんなにいい話じゃないよ」
「そうなのか? 給料だって上がるだろ?」
「月給二〇万スタートで、あとは業績で上げるって。言っても、そう上がんないよ、見てたら分かる」
歩きながら、瞬は頭のうしろで手を組んだ。
「ここに骨をうずめる気にはならない。断ったよ」
「瞬……」
伸幸には言わないが、まだ自分の味覚は百%戻っていない。この状態で味を決める仕事はできない。
そのくらいには、料理人の仕事に対する誠実さ、思い入れが瞬にはあった。
のんびりと数分歩き、部屋に着いた。
瞬が冷凍庫の扉を開けると白い空気があふれてきた。暑くなってからは、伸幸がアイスを買って入れておいてくれる。
「伸幸さんも食べる?」
「うん」
「どれ?」
「ラムレーズン」
「ほい」
冷たいバニラアイスを舌にのせる。この爽快感。
「ふー」
仕事終わりの至福のときだ。
ストロベリーやら抹茶やら、フレーバーつきのものはまだそう楽しめない。自分の感じている味を、記憶の味と比べてしまう。
伸幸はオッサンだけあって、酒味のものが好きなようだ。前にチョコレートを選んだときも、リキュールの入ったものをうまそうに食っていた。
瞬が飲まないからこの部屋では飲んでいないが、本当は飲みたい方なのかもしれない。
「なんか、もったいないな」
「何が」
「さっきの話だよ」
「ああ。正社員にって?」
「うん」
伸幸はスプーンを置いた。
「じゃあさ、瞬はどんな仕事をしたいの?」
「え? 俺?」
そう訊かれると、返事に困る。
「分かんね。やっぱ、うまいもの作って、誰かに喜んでもらえる仕事、なんかなぁ……」
アイスが柔らかくなってきた。瞬はカップから大きめにクリームをはがし、口に入れた。
「今の生活、ワリと不満ないかも。伸幸さんが俺の作るもの喜んでくれてさ」
(あ……!)
瞬は口を閉じた。
しまった。
こういうことを言うと男は豹変する。自分のものだと誤認して、ひとのことを好き放題し始めるのだ。
瞬はさり気なく伸幸の表情をぬすみ見た。
伸幸は変わらず穏やかな表情で、黙って瞬を見つめていた。
嬉しそうな、楽しそうな瞳のままで。
最初のコメントを投稿しよう!