8、うまいもの食って、好きなヤツと寝て、それで「生きて」いくんじゃないの

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8、うまいもの食って、好きなヤツと寝て、それで「生きて」いくんじゃないの

 長谷川に呼ばれて事務所へ行くと、そこには課長と、あまり見かけない女性がいた。  歳の頃は三〇代後半。化粧っけがなく、長い髪を後ろで結いあげている。今すぐ作業着を着て作業場へ入れそうないでたちだ。 「角倉くん、今日呼んだのはね、君に新しい仕事を引き受けてもらえないかと思ってね」  机の上で手を組んで、課長が瞬を見上げて言った。 「『新しい仕事』……ですか?」  盛りつけと仕込みのほかに、バイトにやらせる仕事はあるか? 弁当の受注オペレータなら、自分にできる気はしないが。 「ウチの売上がリピーターのみなさまに支えられてるのは、ご存じの通りです。だから、週に何度ウチのお弁当を食べていただいても、飽きられないよう、常に新メニューを開発・投入していく必要があります」  女性の方が口を開いた。  瞬はその通りだと思った。  瞬がうなずくと、課長が慌てた様子で後を継いだ。 「常務のおっしゃる通りだよ。新メニューが大切なんだ。そして、メニュー開発は、誰にでもできる仕事じゃあない。おいしいだけじゃダメで、ウチの設備で作れなくちゃならんし、原価率を適正な範囲に収めなくちゃならん」  瞬は課長に目を移した。何が言いたい?  次に瞬は長谷川を見た。長谷川なら、ほのめかしじゃなく、ハッキリ内容を伝えてくれる。  盛りつけ班チーフの長谷川は、背筋を伸ばしてこう言った。 「瞬ちゃん、あんたに、『新メニュー』開発の仕事はどうかって。これは大事な業務だから……分かるだろ?」  全然分からない。  瞬がきょとんとしているので、常務と呼ばれた女性が説明した。 「角倉さん、あなたに、ウチの企画開発部のメンバーに加わっていただきたいの。もちろん、正社員待遇よ。『情報漏洩しません』って書類にサインしていただかなきゃいけないし」  そう言って常務はふっと笑った。ジョークだったようだ。 「和食の調理をずっとやってきた角倉さんなら、いろんな料理を知ってるだろうし、業務として作る感覚も、原価計算も分かってる」  あっけに取られてものも言えずにいる瞬に、常務は一歩近づいた。 「お願いします。我が社の本格的な一員になってくださいませんか」  よろしくお願いいたしますと、常務は瞬に頭を下げた。 「瞬!」  通りの向こうで、伸幸が手を振った。 「お疲れ」  瞬が道を渡ってくるのも待ちきれないように、伸幸は足早に近づいてきた。 「お迎えごくろう」  照れくさいのを隠し、瞬は尊大にねぎらった。そして伸幸の肩に手を伸ばした。 「ありがたきしあわせ」  伸幸はふざけて瞬の手をとり、そこへキスするまねをする。  瞬はあわててひっこめた。 「職場にバレてるとはいえ、一応さあ。往来なんだから」 「はいはい」  伸幸はクスクス笑って肩をすくめた。 「伸幸さん」 「ん?」  ふたり並んで、夏の街路を歩く。照りつける陽光に、首のうしろがジリジリ灼かれる。 「今日仕事終わりに事務所に呼ばれてさ」 「うん」 「『常務』ってひとに、『新メニューの開発』をやらないかって言われた」 「えっ」 「正社員にするからって」  伸幸は足を止めた。 「すごいじゃないか、瞬!」  瞬が止めるヒマもかわすスキもないままに、伸幸は瞬の手を取り、握りしめた。 「おめでとう! 普段の仕事ぶりが評価されたな」 「あー」  瞬はさりげなく伸幸の手を外した。 「そんなにいい話じゃないよ」 「そうなのか? 給料だって上がるだろ?」 「月給二〇万スタートで、あとは業績で上げるって。言っても、そう上がんないよ、見てたら分かる」  歩きながら、瞬は頭のうしろで手を組んだ。 「ここに骨をうずめる気にはならない。断ったよ」 「瞬……」  伸幸には言わないが、まだ自分の味覚は百%戻っていない。この状態で味を決める仕事はできない。  そのくらいには、料理人の仕事に対する誠実さ、思い入れが瞬にはあった。  のんびりと数分歩き、部屋に着いた。  瞬が冷凍庫の扉を開けると白い空気があふれてきた。暑くなってからは、伸幸がアイスを買って入れておいてくれる。 「伸幸さんも食べる?」 「うん」 「どれ?」 「ラムレーズン」 「ほい」  冷たいバニラアイスを舌にのせる。この爽快感。 「ふー」  仕事終わりの至福のときだ。  ストロベリーやら抹茶やら、フレーバーつきのものはまだそう楽しめない。自分の感じている味を、記憶の味と比べてしまう。  伸幸はオッサンだけあって、酒味のものが好きなようだ。前にチョコレートを選んだときも、リキュールの入ったものをうまそうに食っていた。  瞬が飲まないからこの部屋では飲んでいないが、本当は飲みたい方なのかもしれない。 「なんか、もったいないな」 「何が」 「さっきの話だよ」 「ああ。正社員にって?」 「うん」  伸幸はスプーンを置いた。 「じゃあさ、瞬はどんな仕事をしたいの?」 「え? 俺?」  そう訊かれると、返事に困る。 「分かんね。やっぱ、うまいもの作って、誰かに喜んでもらえる仕事、なんかなぁ……」  アイスが柔らかくなってきた。瞬はカップから大きめにクリームをはがし、口に入れた。 「今の生活、ワリと不満ないかも。伸幸さんが俺の作るもの喜んでくれてさ」 (あ……!)  瞬は口を閉じた。  しまった。  こういうことを言うと男は豹変する。自分のものだと誤認して、ひとのことを好き放題し始めるのだ。   瞬はさり気なく伸幸の表情をぬすみ見た。  伸幸は変わらず穏やかな表情で、黙って瞬を見つめていた。  嬉しそうな、楽しそうな瞳のままで。
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