9、さよなら、休憩期間

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9、さよなら、休憩期間

「ただいま……っと」  瞬は自分でカギをガチャガチャ言わせて部屋に入った。  油が切れてきているのか、カギを回すときやけに引っかかる。  伸幸はいなかった。  最近伸幸は、いるときにはおおむね瞬の職場に迎えに立っていたから。  弁当屋から外に出て、道の向こうにいなければ、部屋にもいない。  今日は仕込みシフトだったので、もう夕方だ。 「さて、と」  瞬は冷蔵庫をのぞいた。伸幸が持ってきた冬瓜が少し、ラップにくるまれて残っていた。  瞬は時計を見た。煮物でも作っておけば、人数が増えてもシェアできる。  伸幸が来ないと、訳分からん食材に悩まされることもない代わりに、食費がかかる。  夏の盛りは過ぎつつあるが、まだまだ暑い。  暑くてものどを通るものを、少し作ろう。  瞬はスマホと財布をポケットにねじこんで、再び外へ出た。  瞬が調理師だと知られてから、午後の仕込みシフトが増えた。メニュー開発担当を断られても、「作る」系に近い仕事をふっておけば、そのうち瞬がこの会社で調理の腕をふるいたくなるかもと期待しているのだろうか。  瞬から見れば、調理することと、弁当の仕込みをする流れ作業と、新しいメニューを考えることは、それぞれにまったく違う別々のことでしかないが。  少量の食材を仕入れて瞬は、冬瓜を煮て、豆腐の水を切った。  汁ものはとろろ昆布を買ってきて、醤油を垂らした。出汁も要らないし、和食ラインナップの中ではインスタントな食べものだ。  通常の一人前量の三分の二程度を器に盛り、瞬はひとりの食卓に着いた。  冷ややっこに載せた生姜がつんと鼻に抜けた。 「瞬ちゃーん、最近、あの彼氏見ないねえ」 「大きなお世話です」 「また別れたの?」 「だから『また』って何すか、いつもいつも。失礼でしょう」  放っといてくださいよと瞬はそっぽを向いた。それでも食い下がってくるのが、おばちゃんたちの遠慮のなさだ。 「大丈夫大丈夫。瞬ちゃんくらい可愛ければさ、またいいひとと出会えるって」 「ホントですか。発言には責任取ってくださいよ」 「いや、責任は取れないけど」 「なら、黙っててください」 「瞬ちゃん、出会いが欲しければ、出会えるとこに行かないとさ。こんな、おばちゃんばっかの職場じゃダメだよ」 「やですよ、職場恋愛なんて。相手とうまくいかなくなったら、職場ごと変えなきゃならないじゃないですか」 「それもそおねえ」  おばちゃんたちは、わざと冗談にして、瞬を元気づけようとしてくれている。瞬は年かさの職人たちと一緒に仕事をしてきて、辛うじてそうしたいわゆる「昭和」のノリ、気づかいを理解できるが。 「みなさんねえ、俺だからみなさんのそういう軽口を受け止めてますけど。普通は通じませんからね。『セクハラだ』『嫌がらせだ』って訴えられますよ」 「ええ? そうなのかい? 華ちゃん」 「まあ、そうですね。アウトかもしれませんね」  盛りつけチームのサブチーフ、武藤華が淡々と答えると、おばちゃんたちが「キャー」と声を上げた。  瞬はパタンとロッカーを閉めた。武藤華と目が合った。  武藤はいつものように無表情だったが、更衣室を出る瞬の後ろをついてきた。 「……心配、しないでください」  一線を踏みこえることはしない、武藤の優しさを、瞬は知っていた。 「そんなんじゃないのよ」  武藤は足下を見たまま言った。  瞬は立ち止まった。 「平気ですから、俺」 「角倉くん……」  瞬は笑った。 「『瞬』でいいですよ。……俺、田舎に姉がいるんです。俺にはちっとも優しくない姉だったけど……。華さんみたいな優しいひとが姉さんだったらいいのに。出会えて、よかったです」  武藤はハッとした顔をした。 「瞬くん、ここを辞めるの?」  瞬は笑顔を出入り口の扉へ向けた。 「まあ、そのうち。俺も、いつまでもここで人生の休憩ってやつを楽しんでいる訳にもいかないんで」 「そっか……そうだよね」 「はい」  瞬は出入り口の扉を押した。 「長谷川チーフには、まだ言わないでくださいね」 「うん。分かった」  武藤は小さく手を振って、道を渡っていった。  瞬はそれから何度か、メシを作る量を間違えた。  ひとり分じゃ食べきれない量を作ってしまい、暑さで傷んだおかずを捨てた。  自分の満腹量も量れず、食べすぎてトイレで吐いたりもした。  ばからしくなって、作るのを止めた。  瞬には分かっていた。  伸幸は、もうここへは来ない。   バイト帰りにスーパーへ寄り、ゼリー飲料を買ってきた。  何週間かぶりに飲んだゼリーは、苦くてヘンに甘くって、かえって胸が悪くなった。  瞬はその胸の悪さを味わった。  突然やってくるものは、また突然去っていく。  当然のことだ。  嵐が来るのも、それが去るのも、人間が制御できることではない。  出会いと別れもそれと同じ。  まして、伸幸は、現れるのも消えるのも、予測のつかない嵐のようなものだった。  瞬は、いっとき、嵐に吹かれる葉っぱのようなものだっただけだ。  寄る辺ない葉っぱのような生き方。  それを選んできたのも、瞬自身だ。  これからも葉っぱでいるのか。  それとも、何か別の生き方をするのか。 (また、『生きて』みようか)  瞬は考えた。  特定の誰かのために料理を作るのは、その誰かがいなくなったとき寂しいから。  不特定の誰かのために、何かを作ってみようか。  不特定の誰かが、「おいしい」と笑ってくれたら。  好きなひとと暮らせる幸せの、何分の一かにはならないだろうか。  瞬はこの部屋へ引っ越してきてから、一度も手を触れていない荷物を開けた。  バイトしてゼリーを飲んで眠るだけの毎日には必要ない、封印していた品々。  荷物の奥から、布と新聞紙に厳重に包まれた仕事道具を取りだした。  包みを一枚、一枚とめくっていく。  すっかり鈍い色にくすんだ包丁が現れた。  自分の腕と同じようにさび付いた包丁たち。  自分の舌も、気持ちも、同じくらいにさびている。  瞬はそれを台所に持っていった。  一緒に出てきた砥石を使い、一本一本砥いでいった。  腕や舌は包丁と同じようには輝かないが。  瞬は求職サイトに登録してみた。
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