9、さよなら、休憩期間

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「いつでも、戻ってきていいからね」  盛りつけ班チーフの長谷川は、涙ながらにそう言ってくれた。 「元気でね!」 「就職先からお弁当注文して」 「誰か急遽休んだときには電話するから、手伝いに来てよね」 「いいひとと出会えるといいね」 「彼氏できたら、見せにおいで。おばちゃんたちの人生経験で判断してあげるから」  おばちゃんたちの遠慮のない励ましを聞くのも、これが最後と思うと感慨深い。 「みなさんね……。いつもいつもありがとうございます。次のひとには、そういうこと言っちゃダメですよ。冗談になりませんからね」  大した荷物も置いていなかった更衣室のロッカーを空にして、瞬は振りかえった。 「みなさん、お世話になりました」  軽口を利いていたおばちゃんたちが、しんと静かになった。  瞬はぺこりと頭を下げて、更衣室を後にした。  サブチーフの武藤が、瞬の後をついてきた。 「瞬くん、次の仕事、決まってるの?」 「いいえ、まだ。少しだけど蓄えもあるので、じっくり探してみますよ」 「そう」  出入り口の扉の前で、瞬は立ち止まった。 「華さん、今まで、ありがとうございました」 「こちらこそ。楽しかったわ。死人みたいに土気色をしたあなたが、少しずつ生気を取り戻して、生きてる人間に戻っていく過程を見ているのが。とくに骨と皮だったところに、少しずつ肉がついていくのが」  瞬は苦笑した。 「華さぁん、それはいくらなんでも、趣味悪くないすか」  武藤は笑わない目で瞬を見た。 「傷ついて逃げてきても、身体と心を休めれば、ひとはまた回復して、そのひとの人生に帰っていける。わたしも子供がいるから。わたしも妊娠と出産で一度はキャリアを諦めかけたけど、わたしも子供も、もしこれから何かあっても、少し休んで、回復したらまた戻ればいいんだって。何度でもチャレンジできるんだって」  武藤にしては珍しく長いトークだった。  そこまで一気にしゃべり、武藤は肩で大きく息をした。 「華さん……」 「瞬くんは、それを教えてくれた。いいえ、そんなこと、誰でも知ってはいるのよ。実際にそれを目撃する機会がないから、信じられないだけなのよ」  武藤は首を傾げて、「ありがとう。わたしにそれを見せてくれて」と笑った。瞳に涙がにじんでいた。  瞬はそれを素直に「キレイだ」と思った。 「……なんか、よく分かんないすけど。お役に立ったならよかったです」  武藤は右手を差しだした。 「『優しい姉さんがいたらいいな』と思うときには、いつでも連絡して」  瞬はその手を握りかえした。 「はい。そうします。お元気で」  通りを渡り、瞬は振りかえって手を振った。  武藤は黙って手を振ってくれていた。 「よし。これでいいかな」  瞬は空っぽになった部屋を見回した。  荷物は荷造りして早い時間に運送屋に渡した。  身の回りの少しの品をカバンに詰めて、ほんの数ヶ月住んだこの部屋を出ていく。  瞬はガチャガチャとつかえがちのカギを回した。  とうとう油を差さずに終わった。  昨日不動産屋が明け渡しの確認に来た。最後までテキトーな管理だった。不動産屋に指示された通り、手渡された封筒にカギを入れ、郵便受けにポトリと落とした。  これで、瞬はもうこの部屋に入れない。  寿司屋をクビになり、抜け殻のようになってここにたどり着いた春。  何も考えないようにしてバイトを探し、早朝弁当屋へ通うようになった。  朝早いのは慣れていた。寿司屋と違って夜早く眠れるのでラクだった。  そしてある日。  カギを開けると、背後から大きな熊に抱きついてこられて――。  熊はいつかまたこの部屋に現れるのだろうか。  そのとき、この部屋には誰か住んでいるんだろうか。  熊の名を口の中で呟きそうになり、瞬は慌てて首を振った。 (『誠さん』は、どんな気持ちでこの部屋を出ていったんだろう……)  そこのところは、瞬には分からない。伸幸は何も言わなかった。  連絡のつくマトモな彼氏ができて、ワクワクと楽しい気持ちで引き払ったのかもしれないじゃないか。  瞬はカバンのヒモを握りなおして、駅へ向かった。  午後のうちに、新しい職場へ着かなくてはならない。  今日はこのまま顔合わせだ。そのために一張羅のスーツをクリーニングに出して、シワを伸ばしておいたのだ。  弁当屋のおばちゃんたちは、瞬のスーツ姿を見たら、何と言うだろう。  また口々に、失礼なことを言うに違いない。  それなりに居心地のよい職場だった。  次の職場にも、そのくらい馴染めればいいなと瞬は思った。 (あ、でも、自分の性志向までは、別に理解してもらわなくていい)  そんなにバレバレにしていたろうか。おかしいなあと瞬はまた首を振る。  あれは悪意のない励ましだったからよかっただけで。  武藤の言ったように、瞬にとって、あそこは人生の休息だったから。  人生の本筋で、無遠慮にいろいろ干渉されるのは、勘弁だ。  いくつか登録した中で、ひとつの転職サイトから瞬にすぐオファーが来た。 「技術指導」の名目で、経験者限定の求人だった。  詳しい業務内容はイメージできなかったが、勤務時間は九:〇〇~一八:〇〇、給料も悪くなかった。勤務地は農場併設の田園地帯だったが、宿舎もある。  行ってみるとキレイなオフィスで、スタジオみたいなキッチンもあった。面接してくれた重役さんもまだ若くて、会社自体が若々しい感じだった。 「今、社長は遠方の農場へ行っていて留守してますが。『よろしく』と言いつかってます」  そう言って重役さんは済まなそうに瞬に頭を下げてくれた。  瞬がこれまで働いてきた先は、どこも上下関係の厳しいところばかりだったので、これには瞬も度肝を抜かれた。  一度、そうしたホワイトな職場で働く経験をしてもよかろう。  瞬はその場で入社を決めた。 (どうせ研修施設で、専卒の見習いコックにケイコをつける仕事だろう)  専門学校を卒業したてなら、二〇歳くらいが主で、後は転職組がチラチラ混じるくらいか。  今の自分の年齢なら、多分やれる。大丈夫だ。  特急にゆられ窓の外の景色をながめながら、瞬は心の中でそう思った。  面接のときには、「そのうち商品開発や企画も」と言われたが、実際にその話が出たときに考えればいい。  二ヶ月くらいの間に、ほとんど感じなかった味が、七割ほどに回復したのだ。  のんびりした自然の中で仕事をすれば、さらによくなるかもしれない。
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