9、さよなら、休憩期間

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 特急に二時間乗って、山の中の駅に降りた。  一度面接に来たので、勝手は知っている。  指示された通り、列車の中から瞬は会社に連絡していた。面接のときに会った重役さんが、自分で車を運転して、駅まで迎えに来てくれた。 「角倉さん、よくお越しくださいましたね」 「お疲れさまです。お世話になります」  瞬は車に乗り込んだ。  重役さんは新井と言った。社長室長だそうで、要は全国を飛び回る社長の秘書をしているらしい。 「まあ、社長はほぼ社にはいませんので、留守番ですよ。あはは」  そう言って新井は笑った。  これから瞬が勤める会社は「(株)ハタノ」。フード・サービスやら、アグリプロダクトやら、ファクトリーやら、インターナショナルやら、社名の下にさまざまな部局がぶら下がっている。そんな中で、地味に和食の修行をしてきただけの瞬に、何ができるのか。  だが、瞬を望んだのは向こうなのだ。瞬は望まれてやってきた。ここで積める経験を積んで、キャリアアップにつなげられたら御の字だ。 「お忙しいんですねえ、やっぱり」 「ええ、そうですね。社長もお父さまの事業を継いでから、いろいろ新しく始められたことがありましてね。何しろ食品産業は、変化が早いですし、世界とも戦っていかなくちゃなりませんしね」  二代目社長か。三代目かもしれない。どこかで聞いたような話だ。 「ま、本質的に、『自由な』方ですんでね。好きに飛び回ってらっしゃいますよ」 (へえ……?)  新井の声にあきれたような響きを聞いて、瞬は横目で社長室長の表情を見た。新井の目は笑っていた。奔放な若社長を許容して、そのフォローに徹しているのだろう。歳の頃は三〇代後半か。  その社長には、人望があるようだ。  車はパッチワークのような丘を抜けて走った。ところどころに牛が草を食んでいた。 「さ、着きましたよ」  開けた農場脇の社屋に車が停まった。  カバンを手に、瞬は新井の後をついて階段を登った。  途中すれ違った社員が、 「お帰りなさい。社長は今不在ですよ」 と新井に声をかけた。 「またですか。もう、困ったもんだ」 と新井はぼやいた。 「こちらで少し休んでいてください。社長を探してきます」 「はあ」  瞬は新井に通された部屋をぐるりと見回した。  明るいベージュの壁に、穏やかな茶の応接セット。奥は一面ガラス窓で、農場がよく見える。窓の手前に大きな机がひとつ置かれている。  してみると、ここは社長室なのだろう。  緊張する。  社長は多分、ハタノさん。  さっきの新井さんが、あきれながらも尊敬して仕えているところを見ると、新井さんより少し歳上、四〇代くらいなのかな。 (まあ、誰が社長でも、俺みたいな下っ端の仕事は変わんないよね)  早く面通しを終えて、宿舎に入りたい。自分の住む環境を確認したい。  瞬は柔らかなソファの上で身じろぎした。  バタバタバタと扉の外で物音がした。 「社長ー!」  新井の悲鳴がして。  バタン!と勢いよく扉が開いた。 「社長っ!?」  新井が肩で息をしながら廊下を歩いてくる。  瞬は思わず立ち上がっていた。  扉を押さえて仁王立ちになっていたのは。  懐かしい、瞬の熊さん。  伸幸が、グレーのスーツをパリッと着こなして立っていた。 「よく来たな」  伸幸は扉から手を離した。  新井の鼻先で扉は閉まった。新井は入ってこなかった。 「待ってたよ、瞬」  伸幸は一歩一歩じゅうたんを踏みしめ、瞬のところへやってきた。  伸幸はポケットからハンカチを取りだした。  かいがいしく、伸幸は瞬の世話をする。瞬の頬から涙をぬぐって、伸幸は瞬の瞳をのぞきこんだ。 「……だから、連絡くらい、しろよな」  すごい鼻声になっているのが悔しい。 「ごめん」  伸幸は瞬の頭を優しくなでた。  こんなくらいでほだされてなんて、やらないぞ。  瞬は唇をかんだが。  ふかふかのソファで、伸幸に抱かれるように頭をなでられて。  瞬は目を閉じた。  うまいもの食って、好きなヤツと寝て、それで「生きて」いくんじゃないの。 「瞬?」  瞬はもう涙をこらえなかった。  「また限界料理を作らされるのかよ。うんざりだな」  小さな声でそう呟いて、瞬は伸幸の胸に寄りかかった。 「そうだよ。瞬はこれからずっと俺のために、その腕をふるうんだ」 「くそ。ようやく逃れられたと思ったのに」 「残念でした。俺は瞬を手放したりしないよ」  伸幸は瞬の身体に腕を回し、ギュッと強く抱きしめた。 「今夜のご飯も一緒に食べよう」 (今夜のご飯も、一緒に……) 瞬は、ただ黙って、こくりと小さくうなずいた。
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