★、ボーナストラック「ハッピーエンド」

1/3
687人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ

★、ボーナストラック「ハッピーエンド」

 1、  伸幸は瞬の腕を取った。 「行こう」  瞬は数回まばたきした。最後の涙が流れきった。瞬は手の甲でそれをぬぐった。  伸幸は瞬の荷物を持ちあげ、瞬の腕を引いて扉を開けた。  瞬は仕事場へ案内されるのだと思った。この顔で同僚となるひとたちに引きあわされたら、恥ずかしい。多分きっと目の周りと鼻は、涙で赤くはれている。  伸幸は瞬を連れて階段を降り、誰もいない広いエントランスを大またで歩いた。瞬は伸幸に腕を取られ、エスコートされるままについていく。  伸幸はそのまま社屋を出て、広い駐車スペースに停めた車へ瞬を乗せた。 「え? 伸幸さん、どこへ行くの?」  伸幸は後ろのドアを開け、瞬の荷物を放りこんで言った。 「君の住むところだよ」  伸幸は運転席に乗りこみ、エンジンをかけた。車はすべるように動きだした。  ここへ来たら確認したいこと、説明されるであろうことが、いくつもあった。  だが――。  窓の外には農場が広がっている。ところどころに防風林が長い影を作る。  伸幸がすぐ隣にいる。景色を見ていても、瞬にはそのことしか考えられない。空気ごしに体温を感じて。  照れくさくて運転席を見られない。  黙っているのも恥ずかしくて、瞬は口を開いた。 「あの、新井さんに、挨拶、しなくてよかったの……かな?」 「新井に? 何で」  伸幸もまっすぐ前を見たまま声だけで答えた。 「だって、ここまで案内してもらったし」 「案内って、……俺が行けなかったから、代わりに行っただけだ。いいだろ、もう俺がいるんだから」 「……そういうことになるのかな」  伸幸は面白くなさそうだ。  瞬はピンと来た。 「あ……! 伸幸さん、ヤキモチ?」  車が細いわき道へそれた。あまり減速しなかったので、瞬の身体は運転席へ大きくゆれた。 「わわわっ。何だよ、乱暴な運転だなあ。伸幸さん、ハンドル握ったら人格変わるヒト?」  田園風景を三分ほど走ったろうか。車は立派なログハウスのような建物の前へ停まった。  瞬は寮のようなところへ連れていかれるのだと思った。こんな、芸能人の別荘のようなところへ来るとは。  誰かが手放した別荘を、社員のためのシェアハウスにしているのか。だったらちょっとわずらわしい。  伸幸は瞬のカバンを自分の肩に引っかけ、ログハウスのカギを開けた。 「うわ……っ」  思わず瞬は声を漏らした。  内装も、外見以上に立派だったからだ。  入るとすぐ広いリビングで、リビングの中央は少し低くなっている。寄せ木細工の上にふわっふわのラグが敷かれ、その上にはソファセット。大きさから輸入品だろう。  右手奥はバーカウンター、そこを抜けると多分キッチンだ。ベッドルームもあるかもしれない。反対側は広いベランダで、ウッドデッキに出ていける。  瞬は無言の熊を振りかえった。 「伸幸……さん? ここって一体」  そう尋ねかけた瞬の唇は伸幸にふさがれた。 「ん……んん……ん」  ダメだ。この感覚に、瞬の身体は脱力してしまうのだ。 (久しぶり……この感触……キモチイイ……)  しばらくして、唇が離れると、伸幸はため息まじりに言った。 「ごめん。俺、嫉妬した。瞬の言うとおりだ」 「伸幸さん……」 「俺、瞬のこととなると、ガマン利かない」  ずっと待ってたんだから。  伸幸はそう言った。  瞬の鼻がまたぐすりと鳴った。 「違うだろ。待たせてたのはそっちだよ。あんなに俺、『連絡くらいして』って言ったのに」  二、三発なぐってやろうと瞬は腕を上げた。伸幸は身をかがめた。  瞬の身体が宙に浮いた。  伸幸はカバンを持ったまま、もう片方の肩に瞬をかつぎあげてリビングを横切った。 「下ろせ。下ろせよ」  瞬は伸幸の背をなぐった。 「落ちるぞ。大人しくしてろ」 「だから、下ろせって。どこへ連れていくつもりだ。大体ここはどこなんだって」  伸幸はドスンと柔らかいものの上に瞬を下ろした。  瞬はどでかいベッドに放りこまれていた。ベッドルームも広かった。伸幸は面倒そうに、ネクタイをぐいぐいゆるめた。 「『どこ』ってだから、瞬の住むところだって」 「ええっ?」 「瞬は、今日から俺と住むんだ」 「だってそんな、俺なんて一介の従業員なのに? それも入社したての下っ端で。あんた社長なんだろ?」  ほどいたネクタイを床に落とし、伸幸は起きあがろうとする瞬の顎をつかんだ。伸幸の顔が近づいてきて、また唇が触れあって。  悔しいけれど、瞬は伸幸のキスが好きだ。くちゅくちゅと扇情的な音がして、頭の芯からとろけてしまう。瞬はもう指一本も抵抗できない。 「瞬……」  わずか離れた唇から熱い吐息とともに、伸幸は瞬の名を呟いた。瞬はギュッと目を閉じた。低くて深みのある声は、瞬の背骨を直撃する。  瞬は必死につなぎ止めた意識でのりのかかったYシャツを押した。 「待って」 「……瞬」 「シャワーどこ」  瞬は伸幸をどけて立ちあがった。膝に力が入りきらず、ふらつく瞬を伸幸が支えた。  ザーザーと水音と湯気が満ちる。  バスルームは穏やかなクリーム色で、蛇口やシャワーヘッドは金色に輝いていた。なんというか、とても成金っぽい。 「こういうのって、伸幸さんの趣味なの?」  水音に負けないよう声を張って、瞬は訊いた。 「いや、俺じゃない。どんな事情があったのか、格安だった」  大理石を模した洗面台にもたれ、伸幸が答えた。手には厚手のバスタオルを抱えている。侍従よろしく控えているつもりか。 「ふーん」 「この辺、建物自体あまりなくて」 「そりゃそうだ。見渡すばかり畑だもんな」 「ああ」  瞬はキュッと水栓をひねって、乱暴にシャワーカーテンを開けた。 「てかさ。早く出てってくれない?」  「何で」 「何でって」  瞬はぐっと言葉に詰まった。伸幸は上目づかいに瞬を見た。 「離れたくない。そばにいたいよ」 「だーーーーっ」  デカい図体して、何なんだその甘え上手は。 「あんたがそこにいると、こっから先できないだろ」 「瞬……」 (くーーーー)  瞬にはほだされやすい自覚がある。ある、というか、伸幸と出会ってから、自分のチョロさに気づかされた。  瞬は人さし指を立て、チョイチョイと伸幸を呼んだ。バスタブの湯気の中、瞬の唇は近づいてきた伸幸の鼻先でチュッと小さな音を立てた。 「……俺だってもうガマンできないよ」  だから、な……? 伸幸の頬に触れそうな近さで瞬はそう呟いた。  伸幸はYシャツが濡れるのもいとわず瞬の肩を抱き、観念してバスルームを出ていった。  瞬は大きく息をつき、急いで手順を進めた。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!