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★、ボーナストラック「ハッピーエンド」
1、
伸幸は瞬の腕を取った。
「行こう」
瞬は数回まばたきした。最後の涙が流れきった。瞬は手の甲でそれをぬぐった。
伸幸は瞬の荷物を持ちあげ、瞬の腕を引いて扉を開けた。
瞬は仕事場へ案内されるのだと思った。この顔で同僚となるひとたちに引きあわされたら、恥ずかしい。多分きっと目の周りと鼻は、涙で赤くはれている。
伸幸は瞬を連れて階段を降り、誰もいない広いエントランスを大またで歩いた。瞬は伸幸に腕を取られ、エスコートされるままについていく。
伸幸はそのまま社屋を出て、広い駐車スペースに停めた車へ瞬を乗せた。
「え? 伸幸さん、どこへ行くの?」
伸幸は後ろのドアを開け、瞬の荷物を放りこんで言った。
「君の住むところだよ」
伸幸は運転席に乗りこみ、エンジンをかけた。車はすべるように動きだした。
ここへ来たら確認したいこと、説明されるであろうことが、いくつもあった。
だが――。
窓の外には農場が広がっている。ところどころに防風林が長い影を作る。
伸幸がすぐ隣にいる。景色を見ていても、瞬にはそのことしか考えられない。空気ごしに体温を感じて。
照れくさくて運転席を見られない。
黙っているのも恥ずかしくて、瞬は口を開いた。
「あの、新井さんに、挨拶、しなくてよかったの……かな?」
「新井に? 何で」
伸幸もまっすぐ前を見たまま声だけで答えた。
「だって、ここまで案内してもらったし」
「案内って、……俺が行けなかったから、代わりに行っただけだ。いいだろ、もう俺がいるんだから」
「……そういうことになるのかな」
伸幸は面白くなさそうだ。
瞬はピンと来た。
「あ……! 伸幸さん、ヤキモチ?」
車が細いわき道へそれた。あまり減速しなかったので、瞬の身体は運転席へ大きくゆれた。
「わわわっ。何だよ、乱暴な運転だなあ。伸幸さん、ハンドル握ったら人格変わるヒト?」
田園風景を三分ほど走ったろうか。車は立派なログハウスのような建物の前へ停まった。
瞬は寮のようなところへ連れていかれるのだと思った。こんな、芸能人の別荘のようなところへ来るとは。
誰かが手放した別荘を、社員のためのシェアハウスにしているのか。だったらちょっとわずらわしい。
伸幸は瞬のカバンを自分の肩に引っかけ、ログハウスのカギを開けた。
「うわ……っ」
思わず瞬は声を漏らした。
内装も、外見以上に立派だったからだ。
入るとすぐ広いリビングで、リビングの中央は少し低くなっている。寄せ木細工の上にふわっふわのラグが敷かれ、その上にはソファセット。大きさから輸入品だろう。
右手奥はバーカウンター、そこを抜けると多分キッチンだ。ベッドルームもあるかもしれない。反対側は広いベランダで、ウッドデッキに出ていける。
瞬は無言の熊を振りかえった。
「伸幸……さん? ここって一体」
そう尋ねかけた瞬の唇は伸幸にふさがれた。
「ん……んん……ん」
ダメだ。この感覚に、瞬の身体は脱力してしまうのだ。
(久しぶり……この感触……キモチイイ……)
しばらくして、唇が離れると、伸幸はため息まじりに言った。
「ごめん。俺、嫉妬した。瞬の言うとおりだ」
「伸幸さん……」
「俺、瞬のこととなると、ガマン利かない」
ずっと待ってたんだから。
伸幸はそう言った。
瞬の鼻がまたぐすりと鳴った。
「違うだろ。待たせてたのはそっちだよ。あんなに俺、『連絡くらいして』って言ったのに」
二、三発なぐってやろうと瞬は腕を上げた。伸幸は身をかがめた。
瞬の身体が宙に浮いた。
伸幸はカバンを持ったまま、もう片方の肩に瞬をかつぎあげてリビングを横切った。
「下ろせ。下ろせよ」
瞬は伸幸の背をなぐった。
「落ちるぞ。大人しくしてろ」
「だから、下ろせって。どこへ連れていくつもりだ。大体ここはどこなんだって」
伸幸はドスンと柔らかいものの上に瞬を下ろした。
瞬はどでかいベッドに放りこまれていた。ベッドルームも広かった。伸幸は面倒そうに、ネクタイをぐいぐいゆるめた。
「『どこ』ってだから、瞬の住むところだって」
「ええっ?」
「瞬は、今日から俺と住むんだ」
「だってそんな、俺なんて一介の従業員なのに? それも入社したての下っ端で。あんた社長なんだろ?」
ほどいたネクタイを床に落とし、伸幸は起きあがろうとする瞬の顎をつかんだ。伸幸の顔が近づいてきて、また唇が触れあって。
悔しいけれど、瞬は伸幸のキスが好きだ。くちゅくちゅと扇情的な音がして、頭の芯からとろけてしまう。瞬はもう指一本も抵抗できない。
「瞬……」
わずか離れた唇から熱い吐息とともに、伸幸は瞬の名を呟いた。瞬はギュッと目を閉じた。低くて深みのある声は、瞬の背骨を直撃する。
瞬は必死につなぎ止めた意識でのりのかかったYシャツを押した。
「待って」
「……瞬」
「シャワーどこ」
瞬は伸幸をどけて立ちあがった。膝に力が入りきらず、ふらつく瞬を伸幸が支えた。
ザーザーと水音と湯気が満ちる。
バスルームは穏やかなクリーム色で、蛇口やシャワーヘッドは金色に輝いていた。なんというか、とても成金っぽい。
「こういうのって、伸幸さんの趣味なの?」
水音に負けないよう声を張って、瞬は訊いた。
「いや、俺じゃない。どんな事情があったのか、格安だった」
大理石を模した洗面台にもたれ、伸幸が答えた。手には厚手のバスタオルを抱えている。侍従よろしく控えているつもりか。
「ふーん」
「この辺、建物自体あまりなくて」
「そりゃそうだ。見渡すばかり畑だもんな」
「ああ」
瞬はキュッと水栓をひねって、乱暴にシャワーカーテンを開けた。
「てかさ。早く出てってくれない?」
「何で」
「何でって」
瞬はぐっと言葉に詰まった。伸幸は上目づかいに瞬を見た。
「離れたくない。そばにいたいよ」
「だーーーーっ」
デカい図体して、何なんだその甘え上手は。
「あんたがそこにいると、こっから先できないだろ」
「瞬……」
(くーーーー)
瞬にはほだされやすい自覚がある。ある、というか、伸幸と出会ってから、自分のチョロさに気づかされた。
瞬は人さし指を立て、チョイチョイと伸幸を呼んだ。バスタブの湯気の中、瞬の唇は近づいてきた伸幸の鼻先でチュッと小さな音を立てた。
「……俺だってもうガマンできないよ」
だから、な……? 伸幸の頬に触れそうな近さで瞬はそう呟いた。
伸幸はYシャツが濡れるのもいとわず瞬の肩を抱き、観念してバスルームを出ていった。
瞬は大きく息をつき、急いで手順を進めた。
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