1、ある日バイト終わりに熊男が現れた!

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 熊男はその名を伸幸と言った。  行くあてもなければ金もない、最悪な男だった。 「現金がないだけです。預金はありますから、ホレこのとおり」  伸幸は銀行のキャッシュカードをひらひらさせた。瞬は唇をとがらせた。 「『このとおり』っつったってさあ。通帳じゃないんだから。口座にいくら入ってるか、カードじゃ全然見えないじゃん」 「いっぱい入ってますよ~。ご安心ください」 「だぁかぁら!」  食事が済んで、伸幸には自分の着てきた服を洗濯させた。  伸幸は慣れているのか、風呂場で手洗いして泥汚れを落とした。部屋に落とした泥も掃除させた。  家事はできる男のようだ。とりあえず、客扱いはしないでおく。瞬も自分の名を名乗った。 「俺のことは『瞬』でいいよ」  伸幸は瞬の作った料理を泣くほど喜んでくれた。  自分の作ったものを誰かが食べる。食べた誰かは喜んでくれる。  しばらくぶりの感覚だった。 「じゃあ、瞬くん、みそを買いに行きましょう。ほかに何かあった方がいいものがあれば、それも」 「えー、メンドくさ」 「ボクが買いますから。宿代の代わりです」  伸幸は瞬の背中を押して玄関から外へ連れだした。 「あー、はいはい。アンタの食う分ね。そんで始末するのは俺なんだから、むしろ俺が手間賃もらわなきゃ合わないんじゃない?」  カギを回しながら瞬がそう言うと、伸幸は瞬をのぞき込んだ。 「夕飯の材料は、瞬くんの食べたいものを選びましょうよ。何が食べたいですか? 何でも買ってあげますよ」  伸幸は一七五センチの瞬よりも少しだけ背が高い。体重は筋肉の重みで十キロ以上多そうだ。  瞬はくるりと身をかわして歩きだした。 「俺、今日は固形物はもういいや」 「は?」  伸幸は瞬の後ろをついてきた。 「腹減らないんだよね。食いたいものも別にないの」 「じゃあ普段何食べてるんですか?」 「んー、ゼリー飲料とか、まあ、パンとか? たまにプロテイン飲んだり」 「何ですか、その食生活!」  伸幸は目を丸くして驚いていた。  近所のスーパーに着くと、伸幸は真っ先にATMへ向かい、万券をガサッと下ろしてきた。 (『預金はある』っつってたのは、嘘じゃなかったんだ)  何でも買うとハリキられても、瞬に食べたいものはない。  だが、大根もじゃが芋もまだ残ってるし、調理したイカも一度では食べきれなかった。  伸幸には責任もって、自分の持ってきた食材を片づけてもらわなければならないが、昼の残りでは一食には足りない。  だから、成人男性の一食分を用意しなければならないから。  片づけを進めるためだから……。 「瞬くん、お肉食べられます? 残ったじゃが芋、肉じゃがにするのはどうです?」 「あー、いいんじゃない? 伸幸さん肉じゃがは牛派? 豚派?」 「俺、こだわりはないんですよね。どっちもそれぞれうまいので」  瞬は肉の並んだ冷蔵ショーケースを見て回った。 「そういうひとは助かるね。食べるときに文句言わなそうで」  牛肉のトレイを二、三見て、瞬はそれらを棚に戻した。 「後から文句つけんなら、オーダー時に言っとけっつーの。お互いスムーズに物ごとが運んでいいじゃん、その方がさ」  豚バラの赤身が多いものを選んで、瞬は伸幸の持ったカゴに放りこんだ。  臭いの少ない豚なら、もしかして少しは食べられるかもしれない。  そう。今日の昼、三品を少しずつ食べられたように。  みそと、酒と、茶葉とポットとマグカップ。  気づくと伸幸が楽しそうに選んでカゴに入れていた。 (ヘンなおっさんだな)  軽々とカゴを運ぶ伸幸。風呂に入って身ぎれいにすると、熊っぽさは消えていた。  まあまあそこそこ、筋肉のついた、均整の取れた身体つき。顔立ちは、外でこうして見ると、ほりが深くてモテそうだ。  スーツを着て映えるのは、きっとこんな男なのだろう。  二十七の瞬に「おっさん」呼ばわりされるほどの歳では、ないかもしれない。  狭いワンルームに誰を招きいれたこともない。  だからふとんはひと組しかない。 「ふとんはこれっきゃないからね。俺を蹴飛ばしたら叩き出すよ」  その日の夜は「お互いにがまんするしかないから」と言いわたして一緒に寝た。  ふとんからはみ出す前提で、瞬はいつもより厚着してふとんに入った。  ガタイのいいおっさんと同衾するなんて、どれだけ暑苦しいか。瞬は多少覚悟していたが、寝返りのたび触れる肩や脚は不快ではなくて。  可愛がっている猫が自分の寝床にもぐりこんできたような、温かな浅い眠りを瞬は眠った。  それから伸幸は、瞬の狭いワンルームに居ついてしまった。
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