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しばらく誰にも触れられていなかった。
二度と誰にも触らせたりしないつもりだった。
だから――。
流しと壁にさえぎられ、逃げ場のない台所で、瞬は伸幸に欲望をさぐり当てられていた。
「隠さなくていい。安心して」
「ヤダ……離して……頼むから」
「どうして」
伸幸は瞬の身体の上で手を止めた。
「君が本当に嫌なら止める。でも……」
瞬は半ば下ろされた衣服を引き上げることもせず、されるがままになっていた。
「欲しいんでしょ。腰、動いてる」
動きの止まった伸幸の手。伸幸の言ったとおりだった。
瞬の頬を涙がつたった。またあんな思いをするのは、もう。
「なら、そう言って。俺、無理じいはしないから」
身体を愛されると、心もそちらへ流れてしまう。繰り返したくない。誰も好きになんかなりたくない。
「……欲しい」
瞬は上体をひねって、もう一度今度は自分から深いキスをねだった。伸幸は先ほどよりも熱く返してくれた。瞬は自分の身体が伸幸の指を求めてうごめくのを感じていた。
もう、止められない。
唇が離れて、瞬は自分の意識を手ばなした。
「伸幸さん。続き、して」
夏至が近い。
まだ外は明るく昼間だ。
ぐぐ~っと伸幸の腹が鳴った。
「はは。お腹空いたでしょ。食べよっか」
瞬は自分の身体に巻きついた伸幸の腕をほどいて、立ち上がろうとした。伸幸は瞬の手首をつかまえて止めた。
「瞬」
伸幸の目。じっと瞬の顔を見ている。
「何」
何を言おうとしたのか。瞬はそれを知りたいと思った。
聞きたくないと思った。ひとの心の中は知りたくない。
どっちが自分の本心なんだろう。
(聞かせてよ、あなたが俺をどう思ってるのか)
その質問を瞬は飲みこんだ。
瞬は伸幸の手をポンポンと軽く叩いて振りほどいた。
部屋には食べもののニオイが充満していた。
魚とアサリが煮えたニオイ。
サフランと玉ネギのニオイ。
そして炊けた米のニオイ。
つけ合わせに瞬はキャベツを茹でた。午後ふたりでパエリアの材料を買いに出たとき、一緒にアンチョビも買ってきた。それでキャベツを合えて、パエリアに合う野菜のおかず、「茹でキャベツのアンチョビ和え」を作った。
「相変わらず手早いな。味見もしないんだな」
伸幸が感心して言った。
「意味ないもん。俺、味分かんないから」
いただきまーすとテーブルに向かって唱和する。誰かと囲む食卓の雰囲気。それはこんな感じだったのだろうか。
「ホントに味分かんないの? どれもすごくうまいよ。味オンチのひとの作る料理じゃないなあ」
伸幸は貝をむきながらそう訊いた。瞬は箸でキャベツをつまみ、しばらくながめたあと、意を決して口に入れた。
「元から分かんなかったわけじゃないからな。手が覚えてるんじゃない?」
魚の発酵したニオイは難しいと思ったが、案外イケた。ニオイに反応さえしなければ、味が分からないのはかえって抵抗がなくて、食えた。米料理よりは箸が進む。
もっといろいろ訊かれるかと思ったが、伸幸はそれ以上何も訊かなかった。
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