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○プロローグ/前編
――――全てから逃げ出したくて、何も考えずに電車に乗った。
ガタンゴトンと揺れる電車の中で、橋田花菜(はしだかな)は背もたれに背中を預ける。
揺れるそれはいつもとは違い、突然のカーブもなければ身体が激しく揺れることもない。窓の向こうは真っ暗で、無表情で幽霊みたいな自分の顔が映っているだけだ。
行き先も何も決めず、帰る途中に飛び乗ったこれの終着点は一体どこだろう。どこに向かっているのだろう。しかし花菜は別にいいかとゆっくり瞬きをして、小さく息を吐いた。
もう、全てがどうでも良かったのだ。
別に会社で嫌なことがあったわけではない。
無難にこなす仕事はもうルーティーン化され、まるでロボットのようにパソコンのキーボードを叩いては書類を作成し、提出。こちらの都合なんて考えてくれないクレーマーの相手をするのだって、慣れてしまったわけではないけれど、それでも心に鉄壁のガードを施すスキルなんか身についちゃって。これも無難にこなしていれば、『橋田さん、クレームの対応上手いからさ、そっち回してい?』なんて言われて頷いたとかバカみたい。
得意なわけじゃない。仕事をこなすために得たそれだ。だからといって努力して手に入れたものなのかと聞かれてしまえば困るから、『まぁいいですけど』と返してしまった。
なんとなく出来るようになったから、そうしてしまったのかもしれない。
何だかんだで入社四年目。必死になることも無くなったし、落ち着いたと言えば聞こえがいいけれど、言い方を変えればつまらない会社に、味家の無い日常。
このまま結婚までいくだろうと思っていた彼氏に振られて早一年。結婚に至らなかった理由は、『幸が薄いから、結婚まではしたくない』とかなんとか。そんな風に私のこと思ってたんかい、別れてせいせいするわ。とか思ってみても悔しいし悲しいし、だから通信で栄養の勉強をして、家庭的な女になってやると意気込んだけれど。
(まぁ、なんの役にも立っていないな)
元々料理とかそこまで好きじゃなかったため、学びはしたけれど特に使うこともなく、すでに知識も薄れている。何のために勉強したのかと、尚更むなしくなった。
「~~~~、~~~~」
アナウンスが流れる。ただただ静かに走る電車には花菜しかおらず、小刻みに揺れる窓に頭を預けてそれに耳を傾けてみたけれど、電子アナウンスではないその声には癖があって何を言っているのか分からない。だが終点ではないようで、降りるつもりのない花菜は目を閉じて今日の昼間に言われた言葉を思い出す。
『ねぇ花菜、いつも来てくれるのは嬉しいんだけど、そこまで気を遣わなくていいよ』
『――――え?』
白いベッド、消毒液なのかよく分からないけれど清潔感の漂う匂い。上半身だけ起こして座る親友、絵美に苦笑を浮かべながらそう言われた。
『仕事もあるのに、ここまで来るの大変でしょ?』
『え、別にそんな。そんなことないし、絵美と話したいし、それに、心配、だし』
足に白い包帯が巻かれ、彼女本来の足よりも数倍太いそれに視線を向ければまた絵美は苦笑した。
『もうすぐでリハビリに移るしさ、心配なんてもういらないから』
『そうかもしれないけどさっ』
荒げそうになった声に気付き、花菜は慌てて口を塞ぐ。けれど彼女の言い分に納得出来なくてまた口を開いたけれど、こちらに向ける表情を見れば何も言えなかった。
(あぁ、そうか)
花菜は言外に、もう来なくてもいいと言われているのだと察する。それに対して生まれたのは申し訳なさだった。
『ごめん絵美』
気付かなかったと付け足したら嫌味になるだろう。花菜は出来る限りの笑顔を浮かべて頷いた。
『また会えるとき、連絡ちょうだい』
中学からの親友に、来なくてもいいと言わせてしまったことが本当に申し訳なくて、辛かった。
(絵美を轢いた奴を殺してやりたいけど、その前に自分の首を絞めてしまいたい)
事故とは突然に起きるものだが、まさに突然彼女が事故に遭ったなんて、電話が掛かってきた時には生きた心地がしなかった。
幸い命に別状はないものの、怪我は決して軽いものではない。特に足の傷は酷いらしく、今後はリハビリセンターに移るらしい。
花菜としてはそこにも顔を出して、出来る限りのサポートをしようと思っていたのだけれど、よくよく考えれば旦那がいるのだ。自分が出てくる幕では無い。
昔の学生時代とはもう違うのだと、結婚式に出たとき以上に痛感した。
(私、なにしてるんだろう)
首を動かし、頭と背中を預けながら身体を傾ける。まるで酔っ払いが寝こけてしまったかのような体勢だけれど、咎める人もいなければ、誰かに迷惑を掛けているわけでもない。
もう別にいいのだと、全てに対して花菜は思った。
「終点、~~~~。終点~~~~」
再び流れたアナウンスに、聞き慣れた単語。なんならこのまま寝てしまって、『お客さん終点だよ』と漫画みたいに言ってもらおうか。
「・・・・・・それは嫌だな」
花菜は両手を使って身体を起こし、そして立ち上がる。
運転をしている車掌が上手いのか分からないが、ブレーキを掛けたそれに対して引っ張られるような感覚もなくドアが開いた。
窓から外を見ても自分しか映っていなかったのだから、外は真っ暗なのだろうと分かっていたけれど。
「え、なにここ」
これぞ無人駅という、コンクリートの浮島みたいなそれが花菜を出迎え、今にも切れそうな電球の光のような電灯がなんとなく辺りを照らしてくれる。これならまだ月明かりの方が明るいのではと思えるほどだ。
花菜しか降りなかったようで周りに誰もいない。電車もそのままどこかへ消えてしまえば、ポツンと知らぬ土地にひとりきり。
看板のようなものに薄ら駅名が書いてあるようだが、それを見てスマホで場所を調べることはしたくない。迷子でもいい、遭難でもいい。このまま帰れなくてもいい。そんなことを思い、花菜は屋根のある個室の方へと歩いて行った。
「うわ、大丈夫なのかなこれ」
初めて見る改札口、いや改札口と言えるのかすら分からない。
普通ならばICカードは下に向けてかざすものだが、これは横にかざして通る仕組みになっている。
小銭を入れるものではないので壊され盗まれても問題のない代物だけれど、このまま通っても問題はないのではと思えるほどボロいもので不安しかない。それでも花菜がICカードをかざせば、ピッ! と音を立てたのだから、一応使えるようにはなっているらしい。
「こんなの初めて見た・・・・・・」
恐る恐る通り抜け、外に出る。
まだ春になったばかりのこの季節、夜はまだ肌寒い。花菜は着ているカーディガンの上から自分の身体を抱きしめるようにし、首を左右に振って周りを見た。が、今度は電灯も無いようで、真っ暗闇が広がっている。どうやら行き着いた先は田舎だったらしい。
普通こういうところに来ると虫の音が聞こえるものなのは? と思うほどに静かだ――――と、不意にカバンに入れてあるスマホが震えた。
ヴヴ、と短いそれはメッセージが送られて来たものとは違う。だが花菜はあの親友の顔を思い出し、急いでそれを取り出した。
「・・・・・・・・・・・・」
画面にあったのは、やっていたアプリゲームがイベントが始まるという広告のような文字。それを見た花菜は溜息をつきながら「はいはい」とまたそれをカバンに戻した。もしかしたら他のゲームからも来るかもしれない為、サイレントモードにして。
アプリゲームをほぼ放置、ログインだけするようになってからどれくらい経つだろうか。
以前はそれなりに課金をしてガチャやストーリーを楽しんでいたのだけれど、だんだんイベントストーリーを読まなくなり、そしてログインだけするようになって、最後はもうただ画面にアイコンがあるだけになってしまっている。
簡単に言ってしまえば、ようするに興味が無くなった。飽きてしまった。ならばアンインストールをすればいいのだが、折角ここまでやったのにと、勿体なくて消すことも出来ない。またやりたくなるかもしれないからと思うけれど、きっともうやらないだろうなと思うものもあるのに消せないでいるのだから本当に自分は仕方が無い。
もう何度目か分からない溜息をついて、花菜は適当に歩き出した。
一応人と車が通れる道になっていて、何かに躓くことはない。それでも周りは草木で埋まっていて、もしかしたらここは山の方なのだろうか。電灯も、真っ暗闇で何も見えないとなる前にポツンと立てられていて、まるで光に導かれているような感覚になってくる。
先程のスマホで表示されていた時間はもうすぐで明日になる真夜中。
新宿などならまだまだ人が沢山いるだろうけれど、ここでは誰かに会うこともなく、それどころかビルなんてひとつもない。自然に溢れた場所だ。旅番組か何かでこうやって真っ暗な道を歩いて行くのを見たことがある。有名な番組だったが、確か人気の歌手が出た時、その彼に対して司会のお笑い芸人がいらないことを言って炎上。そしてそのまま放送中止になっていたような気がする。
そして今はその歌手も行方をくらましていたような。
「ん・・・・・・?」
電灯を辿って歩いていると、何かが聞こえてくる。
先程のスマホのバイブと似ているような、似ていないようなと考えたところで、今度はふわりと湿った土の匂いではないそれが風に乗ってやって来た。
肩に乗っていた短い髪の毛が浮き、耳元を開かせる。すると、そんなことはないのだが聞こえていた音が明確になったような気がした。
「波・・・・・・」
そうだ、これは波の音だ。
花菜は肩に掛けているカバンを再度かけ直し、少し大股で歩いて行く。すると道が開け、電灯があちこちに姿を見せて視界を明るく照らした。
進むにつれて大きくなる波の音、そしてその先に防波堤が見えれば、向こうには全てを飲み込まんとする暗い海があった。
「海だ」
低く響くように鼓膜を揺らす波の音。防波堤に両手を置いて力を込めれば上れそうだ。砂浜があるのだからきっとどこかに階段があるのだろうけれど行儀良くそれを探すのも面倒で、花菜は久しぶりに子供のように膝を付け、つま先に力を込めてそこを登った。
「はぁ、運動不足が身にしみる」
かれこれこちらは二十六歳なもので、こうやって身体を動かしたのもいつぶりだろう。日々ヒールの靴でつま先だけは鍛えられていたからなんとかなったに違いない。
パンパンと手を叩き、前をむき直すと、真っ黒い墨のような海が砂浜に噛みついては伸ばすように引いていくのが見えた。
防波堤まで登ったからか、波の音が先程よりも大きく聞こえ、その黒い姿と相成って少し怖く感じる。まるでうなり声を上げている怪物のようで、いつか砂浜を一気に飲み込んでこちらへ迫ってくるかもしれない、なんて。それはまるで木の木目が怖いものに見える、まさに子供のようだと花菜は苦笑した。
しかし自分はもうその純粋さを失った、ストレス社会を生きる女なもんで。花菜は肩幅に足を開き、カバンを隣にドサリと落とす。そして息を吸うのもそこそこに口を開けて、
「あああああーーーーっ!」
叫んだ。
周りに誰もいない。目の前には海。真夜中なのはどうでもいいけれど、この状態で叫ぶなという方が無理な話。
花菜は目尻に溜まる涙を零すもんかと何度も両手で目を拭いながら「あぁぁぁああっ!」と叫び続ける。
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