唯一無二の推し

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唯一無二の推し

 始業開始後のオフィスは、マウスとキーボードの無機質な音が響き渡っている。朝一番は、頭の回転も早く、仕事の効率が一番上がる時間帯だ。  今日は金曜日。珍しく予定があるので、なるべく定時で退社したい。  予定の有無に限らず毎朝そう思いながら仕事をしているけれど、今日は全くと言っていいほど仕事が捗らない日だ。ちなみに、そういう日は週に何日かある。もちろん理由は分かっている。  周りの席からパソコンの画面を見られていないことを確認すると、社員のスケジュールツールを開く。  今日は、客先直行か――。どうりで、朝から姿を見ないと思った。一体、何時に出社するのだろう。早く来てくれないと、私の仕事が捗らないというのに。  沈んだ気持ちで画面を戻すと、渋々と作業を再開した。  ここは飲料品メーカー企業、カナリアホールディングス本社。私、素山陽子(そやまようこ)は、主に飲料品を扱う店舗への営業を行う、料飲店営業部二課の営業アシスタントとして入社し、今年で四年目の二十六歳。  その名の通り、営業の人たちのサポートとして、社内外用問わず資料作成や、見積書や契約書など各種書類作成、その他業務の雑用など、難易度自体は高くないが幅広い仕事を行っている。  事務の単調な仕事は、正直楽しくはないが得意ではある。昔から、黙々と作業するのが好きだったし、率先して人の前に立つよりは、誰かのサポートをしている方が性に合っていたから。  陽子、と明るそうな名前をつけられてはいるが、実際は真逆だ。フルネームで見れば何だかアンバランスで、絶妙にダサい。なのであまり自分の名前は好きではない。  おそらく周りからは、とんだ地味な女だと思われているだろう。生まれて一度も染めたことのない黒髪に、化粧っ気がなく幸が薄そうな顔。そして長年愛用しているメタルフレームの眼鏡が、地味さを象徴している。  それでも仕事は速くて丁寧だから、真面目な人として会社からの評価はそこそこ良いのだが―― 「はぁ」  調子が悪い唯一の原因は、今日はまだ『彼』の姿を見ていないから。おかげで全くやる気が起きない。じっと画面を見つめながらも、チラチラとオフィスの入口ばかりを気にしてしまう。  営業部はフレックス勤務ではあるけれど、大体がみんな九時頃には出社してくる。けれど客先直行の彼は、一体何時の戻りなのかが想像つかないから厄介だ。
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