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「これ、取引先からもらったんだけど、配るほどないから」
言いながらデスクに置いたのは、都内でも有名なお店のどら焼き。
「……いえ、でしたら私は結構ですので。他の方にどうぞ」
この馬鹿! こういうのは素直に受け取らなきゃダメでしょ……!?
心の中で、裏の自分が必死に抗議するけれど、表の私はまた塩対応をとってしまう。
自分の行動に猛省していると、漆沢さんはクスリと笑い、そっと耳元に唇を寄せた。
「いつもサポートしてくれるお礼ってことで、特別」
「っ……」
落ち着いたテノールの声が鼓膜に響き、じわりと熱を持つ。距離としてはそこまで近くないはずなのに、吐息が耳にかかったような感覚に、背中をゾクリと何かが駆け巡った。
こうして周りの目がないところだと砕けた口調で話すところも、私のドキドキを加速させるには十分な要因だ。
「そういうことでしたら……ありがとうございます」
なるべく、彼を見ないようにして頭を下げる。私が素直に受け取った様子に、どこか嬉しそうに「今日もよろしくお願いします」と自席へと戻っていった。
殺人的な笑顔を向けられた上に、私にだけ特別に差し入れだなんて……。本気で私を殺す気なのだろうか。
そんなことされたら、再起不能になって、十分なサポートもできないというのに。
朝からキャパオーバー過ぎて、気持ちがついていかない。
ふわふわと高揚したままでいると、横から耳障りな声が聞こえてきた。
「うわ、これ亀屋のどら焼きだ! 漆沢さんにもらったんですよね? 素山さんだけずるいな~」
顔を見ずともわかる。やけに高音で下品な声は、漆沢さんの金魚の糞と言っても過言ではない、角田(かくだ)くん。彼は入社三年目の後輩で、漆沢さんと同じ営業職。
ツンツン頭が特徴的で、ぱっと見の印象がチャラそうな彼は、目を細めたらイケメンに見えないこともないけれど、自分のことを棚に上げて言えば何だか惜しい。目はせっかく形のいいアーモンドアイなのに、それ以外のパーツがやけに大きく、やや残念な顔立ちをしている。
「漆沢さんって、マジで誰にでも優しいですよね。素山さんも勘違いしちゃいません?」
「勘違いとは」
「ほら、好きになっちゃったり――」
「はあ、そんなことないよ」
「そんな怖い顔しないでくださいよ~、冗談ですから。さすがに漆沢さんと素山さんはありえないですよね!」
そして、後輩だというのに、とにかく礼儀がなってない。いつも悪気なく私を小馬鹿にしてくる。いや、多少悪気はあるのかもしれないけれど。
角田くんの視線が気になり、どら焼きをデスクへしまってみせれば、「ちぇ~」とわざとらしく舌打ちをして去っていく。せっかく漆沢さんと話していい気分になったというのに、すべてが台無しだ。
たとえ百万円……いや、一億積まれたとしても、漆沢さんのどら焼きはやらん! と心の中で断言して鼻息をならすと、気持ちを切り替えてパソコンに向かい合った。
……と言いつつも私、どら焼き嫌いなんだけどね。
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