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「母さん……?」
今まで後ろを振り返らなかったからか気づかなかったが、その顔に確かに懐かしさを覚えた。手を繋いでいる女の子は妹だろう。
「ごめんなさい、ずっと後ろから見ていたの。……私も、瑞希のことが気になってこのバスから降りれなくて……今までずっと……」
母さんは泣いていた。妹は僕をじっと見ている。
「……母さん、僕、戻るよ。今まで心配かけてごめん。父さんも大変そうだけど頑張ってるからさ、もう、見守らなくて大丈夫だよ」
心配ない、と笑顔でいうと母さんはまた泣き出して僕を抱きしめた。母さんから体温は感じなかったけれど、心が温かくなる感覚がした。しばらく抱きしめられ、ゆっくりと離れられると母さんは涙目だったけれど、もう泣いていなかった。
「頑張って、生きて。もうこんなに早くここに来ないで」
「……うん」
「死ぬ最後の最後まで幸せだったって、今度は報告に来てね……」
「約束する」
ありがとう、と伝えると、母さんも笑顔を見せた。幼い頃に見た母さんの笑みが蘇ってくるようだ。運転席から運転手の男性が降りてくると、僕らの方に歩いてきた。
「もうこんな早く来るんじゃねぇぞ」
荒い口調だったけれど、その言葉には優しさを感じる。運転手さんの方を見て頷いて、お兄さんにもありがとうと伝えて僕は出口のほうに向き直した。今度こそ一歩を踏み出す。バスから降りて、振り向かないで少し歩くと、そのうち脱力感に襲われ、瞼を閉じた。
目が覚めたらそこには真っ白な天井が視界いっぱいに広がっていた。身体は動かしづらく、目だけを動かせば点滴が見える。そこでここが病院だということに気がついた。
「瑞希……?」
驚いた表情の父さんの顔が今度は目に入る。父さんは僕を見たらすぐにどこかに行って、しばらくして医者と看護師を連れてきた。どうやら僕は数日間意識不明だったらしい。目を覚ましてからどんどん体調は良くなり、お見舞いに来てくれた友人と話が出来るほどになった。
退院も近く迫ってきたある日、病院を歩き回っていたらとある女性とぶつかってしまい、慌てて謝罪をした。その女性は赤ちゃんを抱えていたのだ。
「すみません」
「いえ、大丈夫よ」
赤ちゃんも泣かず、僕はホッとしてその様子を見ていた。赤ちゃんは僕をじっと見つめては幼い笑顔を向ける。そんな赤ちゃんを見て僕も自然に笑顔になった。
「可愛いですね」
「ありがとう。この子はね、初めて授かった子供なの。女の子よ」
「へぇ、名前はなんて言うんですか?」
「……名前は、咲良。何となく、この子には咲良って名前がしっくりきたの」
咲良、その名前を聞いた時、僕はバスの中で出会った咲良を思い出した。赤ちゃんを見て、生まれ変わりだったならいいなとその小さな手を触る。赤ちゃんはその小さな手で僕の指を握った。
「咲良……」
その手を触った途端に漏れた言葉。僕は心の中で、出会えたね、と言っていた。するとまた赤ちゃんは僕に笑みを向ける。
あのバスで再開した母さん、妹、お兄さん、あのバスで出会ったおじさん、咲良、運転手さん、すべては夢かもしれないけれど、僕は確かにあそこで生きることの大切さを学んだ。
この記憶が薄れていかないよう、この心に留めておこう。僕あのバスで、この命をちゃんと生きる約束をしたのだから。
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