夢幻編

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 心地よい揺れが身体に伝わってくる。ここはどこだろう、とゆっくりと目を開けた。  そこはバスの中だった。驚いて周りを見渡せば乗客はどうやら僕を含めて四人らしい。一番後ろの広い席に俯いている女性と寝ている女の子がいた。親子だろうか。そして僕の隣の席で寝ている二十代くらいの男性だ。  バスに乗った覚えなどなかったため運転席の方に行って運転手に話しかけた。 「あの、このバスってどこ行きですか?」  そう話しかけたが運転手はまっすぐ前を向いて、僕の声など届いていないかのように運転を続けている。困った僕はその場で小さくため息をついた。外の景色は真っ暗で何も見えないが雨の音がする。 「このバスはあの世行きだよ」  雨の音に気を取られていたら後から突然声が聞こえた。バスの走っている音と雨の音で後から誰かが近づいてくる音が聞こえなかったのだ。  そこにいたのは先程まで寝ていたはずの男性だった。寝ている時も思ったけれど、とても容姿が整っている。その優しげな笑顔にほんの少し安心してしまった。だが、彼から出た言葉を聞き流すほど馬鹿ではない。 「あの世行き……?」 「うん、そう」  動揺している僕に彼は、座って話そうか、と二人掛け用の席に案内された。僕が窓側に座り、彼は通路側に座る。 「このバスは死んだ人間の魂をあの世に届けるバスなんだ。……ところで君は、何でここに?」  にっこりとした笑みのまま、彼は僕に聞いてきた。少し考えてみる。思い出すのはひどく鈍い音と、真っ赤に染まったコンクリートだ。 「交通事故、だったような気がする」 「記憶が曖昧なんだね。まれにいるよ、そういう人」  だから大丈夫、なんて言ってくれた男性は交通事故か、ともう一度僕の言葉を繰り返した。少し何かを考えているようだ。 「あ、そういえば君の名前って?」  考えている顔から一変し、彼は僕にまた笑顔を向けて聞いてきた。 「瑞希。あなたは?」 「俺?俺はー……まぁ、世話焼きのお兄さんって覚えてくれればいいよ」  どう頑張っても名前は教えてくれそうにない。諦めてお兄さんの方を横目で見たあとに真っ黒で代わり映えのしない窓の外を見た。 「瑞希は今何歳なの?」 「……十五」 「ねぇ、ここに来たのって自殺じゃないよね?」  お兄さんは僕と顔を合わせなくても質問を繰り返す。不快ではなかったから答え続けるが、それには少し違和感を感じた。 「どうして自殺って思うの」 「……だって君がやたら落ち着いてるから。いつの間にかこんな所に来て、普通なら死にたくないとか言うでしょ」  お兄さんの方を向き直して首を傾げる。死んでしまったものはもうどうしようもないじゃないか、とそんな視線を向けた。僕はいつからか諦めのいい人間になっていたのだ。 「少しも戻りたいとは思わないの?」 「戻りたいと思って戻れるものなの? …… お兄さんは、僕に戻ってほしいの?」  そう問いかけたらお兄さんは複雑そうな表情をした。僕はじっとお兄さんを見つめてその答えを待つ。 「俺個人の意見としては、君みたいに若い人はまだあの世に行って欲しくない。……だから、戻ってほしいかな」  でも、と言葉を続ける。あくまで僕の意思を尊重してくれるということだった。それは、僕が戻りたいと言ったら戻れるということだろうか。そうならば、戻りたいと言えばいいだけのこと。だが、僕はそれを言わなかった。僕は交通事故のせいか生前の記憶がひどく曖昧だった。そんな世界に執着もなく、もう死んでもいいか、なんて思ってしまう。 「……何も、思い出せない」  目を伏せて呟いた。ただ一つ、僕はぼんやりと、なんとなく日々を過ごしていたんだろう、という感覚だけは覚えていた。それだけ退屈な日常を送っていたのなら執着がないのも当たり前なのだろうか。 「じゃあ、思い出そうよ。忘れたまま選択したら思い出した時に後悔するかもしれない。大丈夫、ゆっくりでもいいから」  
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