夢幻編

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 お兄さんがそう言うとバスの窓になにか映り出す。どこからか音も聞こえるようだ。聞こえてきたのは泣いている声。それは父さんの声だった。瑞希、どうしてお前まで、そう言っていた。 「……父さん……」  僕には母親がいなかった。小さい時に死んでしまったらしい。僕はあまり母さんのことを覚えていなかったから、悲しいとかよく分からなかった。父さんの泣いている姿を見て、少し胸が痛んだ。父さんの美味しいとは言えない手作りのご飯や弁当を思い出した。そう言えば、ありがとうってちゃんと言ったことあったっけか。そんなふうに考えていたら突然バスのアナウンスが流れる。 「次、止まります。急な停車に、ご注意ください」  低くも、高くもない落ち着く声がバスに響いた。ドアが開く音が聞こえて、スーツ姿の男性が入ってくる。その男性は僕を見て少し驚いて、僕らの前の席に座った。 「君たち、その若さでここに来たのかい?」  その言葉はお兄さんと僕に向けられていた。やはりちゃんと死んだ人はこのバスの存在を理解しているのだろうか。僕は突然ここで目が覚めたため、乗ってきたことには驚いた。 「おじさんだってここに来るには早いような年齢に見えますけど……」 「あぁ、僕は病気だったんだよ……。君たちはどうして……」 「交通事故です」  お兄さんは笑顔を崩さないままそう言った。するとおじさんは少し悲しげな顔をする。 「……僕にはね、君と同い年くらいの息子がいるんだ。……きっとご両親は今も悲しんでいるんだろうね」  僕の方を見て悲しげな表情をしたままそう言った。先程の父さんの映像も、声も、もう聞こえない。 「僕は、父さんが僕に色々してくれたのに感謝すら忘れていました……」  俯きながら話す。するとお兄さんが僕の頭を優しく撫でる。かけられる言葉はなかったけれどすごく落ち着いた。 「……そんなものだよ。けれど、君のお父さんは君を愛していたから君に色々してくれたんだ。君がいるだけで、よかったんじゃないかな……」  その言葉に僕は自分が本当に親不孝だと思った。父さんを一人にしたんだ。気付けば目が熱い。目を手で覆い、呼吸を落ち着かせる。 「僕も、家族を残してきてしまった。君くらいの娘と妻だ。これから二人は苦労していくんだろう……。そう思うと、僕も君のことを責められないね」  僕の様子をちらっと見てからおじさんは話し続ける。僕らはそれを黙って聞いていた。 「けれど、僕は妻と娘のおかげで最後の瞬間まで幸せだった……。僕はもう、十分だ。最後に君にあえて、妻と娘との最後を思い出せて、よかった……」  おじさんは優しい、だが、悲しげな声をしている。僕が顔を上げておじさんの方を向くと、もう前の席には誰も座っていなかった。 「……おじさんは……?」 「もう、あの世へ行ったよ」 「どうして……まだ、バスは止まってない……」 「……おじさんがもういいって思ったんじゃないかな。このバスは死んでから心残りがあって留まろうとした人を乗せているものだから」  僕は目が覚めたらここにいた。それは、僕がなにか心残りがあって留まっていたからこのバスに乗っていたということだろう。涙を拭ってお兄さんを見る。お兄さんからも笑顔は消えていた。 「お兄さんは、いつからここに……」 「俺はずっと前。ここに長くいると時間の感覚がなくなってくるからあんまり正確なことはわからないけれど、たぶん十年以上前だと思う」  ほんの少し悲しげな顔をしながらお兄さんは僕の質問に答えた。十年以上心残りがあるのだろうか。それとも、もうお兄さんはあの世に行こうとしていないのだろうか。気になったけれど、なんとなく聞けなかった。僕は何も言えないままお兄さんから目をそらし、口を閉ざした。しばらく何も話さなかったが、先に口を開いたのはお兄さんだった。
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