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孤独な兄
外の雨音をBGMに、仰向けにスマートフォンを眺めるだけの無為な休日。薄暗い部屋に明かりは灯らず、洗濯物も乾かず、シンクに汚れた食器だけが蓄積されてゆく。
テーブルの上の紙とペンは、役目を果たすことなく放置され、その意味を失っている。ただその周囲だけは整然としていた。
インターフォンが鳴る。宅配は頼んでいなかったはずだと綾妬は思った。ベッドの軋みと、なにかが床に落ちる音。足音。
ドアスコープを覗く。知った顔ではなかったが、綾妬はほとんど無意識にドアノブを握った。鍵をかけていたかの記憶さえなかった。
「はい」
男は中肉中背、紙を一枚持っている他にはなにも持っていない。ただそれは綾妬を見ると、頬をゆるめた。そして、
「はじめまして、あなたの兄です。生き別れの」
と言った。
「は?」
綾妬は男を凝視して、それから首をかしげた。男は綾妬と似ているかと言われると微妙だ。わからない。似ている気もする。嘘か、本当か。気狂いか、あるいは佯狂か。
とりあえず上がっていいかい、と言うので綾妬は男を家にあげた。散らかって、人の住む場所ではなかったが男は物言わずテーブルの前に腰を下ろした。
飲み物とか、なにか出せるものはあっただろうか。半ば腐敗した脳を動かして、冷蔵庫を開くも冷たい空気が流れ出ただけだった。
徒労。
「わたしは尋人。これがその、戸籍謄本」
綾妬は諦めて、喋りだした男の前に戻った。差し出された紙に刻まれた「尋人」の字。見飽きた両親の名前と自分の名前。紙が正しいのか、この男が正しいのか、なにもかもが……。
「で?」
と綾妬は辟易し、掠れた尋ねた。
「信じてくれるのかい」
尋人の顔面に無理やり張りつけたような笑顔。
「そんなわけ、ないじゃん」
ため息に埃っぽい空気が動く。その淀みと濁りがねっとりと顔面にまとわりついて離れない。綾妬は吐き気を覚えて口に手をあてた。
「ていうか、あんた誰だよ。勝手に他人の家に来て紙一枚見せて兄ですってなんだよ。荷物もなしに、どっから来たんだよ。おかしいだろ。ふつうじゃない」
気持ち悪い。
「ごめん……」
尋人は困惑した表情で立ち上がった。綾妬がそれに後ずさる。裸足の足になにかがあたって転がる音がした。
「僕は物心ついたときからひとりっ子なんだよ。だからほんとうにあんたが兄貴でももう関係ないだろ。それ兄じゃないんだよ」
「綾妬、」
「今さらどうしようって言うんだよ。僕はもう嫌なんだ。仕事もないし、金ないし、彼女取られたしほんとクソ。もう来んなよ、話しかけんなよ」
脳みそがとろけて、耳の孔から流れ出しそうだ。綾妬は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。頭痛があるような気もしたし、逆に頭の中があたたかい幸せなもので満たされているようでもあった。
誰かと話すのはひどく久しぶりで、口は必要のないことまでとどめなくだらだらと垂れ流した。
「……誰なんだよあんた」
磨耗した声は震えていた。
「綾妬の兄、です。生き別れの」
「もういいよそういうことで」
綾妬は投げやりに言った。
がさ、と物の動く音、ずれる音、転がる音、落ちる音。濁点のついた疲弊した音。まもなくしてサッシと窓の擦れる音と、雨の匂いが流れ込んだ。
顔をあげると尋人が窓を開けていた。雨だ。雨が降っている音がする。
「ここ片付けていい?」
振り返った尋人ははにかんで言った。その笑顔が雨にとけて、なくなってしまえばいいのにと思った。
その日の夜、綾妬はソファで寝る尋人の前に立った。物もゴミもすっかり片付けかれ、冷たいフローリングがむき出しになっている。この床は固くて痛い。
「……誰だよこいつ」
綾妬は尋人がそうしたように窓を開け、雨を歓迎した。ぱらぱらと降り込むそれはフローリングに落ちて黒く濡れた。意味のない行動が愛おしかった。今は。
尋人は目を覚まさない。規則正しいかすかな呼吸は乱れない。それを一瞥して綾妬は玄関に足を運んだ。そこにはやはり、きれいに揃えられた尋人の靴がある。
薄い月明かりにだけ照らされた狭く無感動な空間は、整頓されたどの部屋よりも静かだった。綾妬は壁に背をつけるとゆっくりと腰を下ろした。諦めるように、うなだれるように。廃退的な彼はそのまま目を閉じ、生ぬるい夜にとけた。
「綾、」
まだ薄暗いなか、尋人は玄関の床で丸くなる綾妬を揺り起こした。綾妬は眠い目を擦ると無感情にただひと言「なに」と言った。
「どうしてこんなところで、」
尋人はそこまで言うと首を振った。どんな心配の言葉も、お互いには無駄なことだとわかっていた。気休め?いや、それ以下。
本能という大きな理の渦から離反した二人にはどんな言葉も意味を失う。
「……どっか行くの」
ドアの開く音が返答だった。
綾妬は薄く開いた目で閉じゆくドアに手を伸ばす。
「ひろ。尋兄さん」
ガチャン、と重い音。
夜の帳はもう上がる。
「呼んでみただけ……呼んでみただけだ」
それが尋人の求めることだと、綾妬はわかってなお言った。
再び目を閉じるには明るすぎる。綾妬は玄関の鍵を閉め、リビングに戻った。雨はとうに止んでいる。はじめから降っていなかったのかもしれない。
数ヶ月ぶりに、生きている気がする。
テレビは朝から自殺者の報道をしていた。
欄干のそばにきれいに並べた二足の靴。
片づけられた部屋。
テーブルの上の白紙の紙はなくなっていた。
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