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子供はすくすくと成長した、と言いたいところだが、これがなかなかに大変だった。
すくすく成長してもらうために、わたしや夫は奮闘した。特にわたしは授乳しなければならず、頻繁に子供にたたき起こされた。
夫もいるし、世話人もいる。だから、ミルクを使えば、少しは休めたかもしれない。けれど、これも両親から言われていたことだった。子供はミルクなんかよりも母乳で育てることが大切なんだ、お前も子供が生まれたら必ずそうしなさい、と特に母親からきつく言われていた。
子供に対して、やはり愛情と呼べるものは生まれてこなかった。起こされることを煩わしいと感じることはあっても、一生懸命に乳首に吸い付く姿をかわいいと思うことはなかった。
ただただ、お腹が空いたんだ、ぐらいにしか思っていなかった。
一方で、夫は違った。いつもあたたかで、余裕を感じる大人だった夫は、てんやわんやしていた。
子供が泣けば、わたしより先に子供のところに飛んでいき、ごはん? おしっこ? うんち? 抱っこ? などと声をかけていた。
少しでも熱が上がれば、すぐにでも病院に連れて行こうとしていた。赤ちゃんは元々の基礎体温が高い、ということを世話人から教えられてからは、少し落ち着いたけれど。
世話人もいたのだが、夫は世話人が何かをするよりも必ず先に行動をしていた。
それが空回りすることも多く、子育て経験のある世話人から呆れられたり、怒られたり、諭されることも少なくなかった。それを見て、わたしは夫という人間が少し面白いと感じるようになっていた。
「だいぶ、大きくなりましたね」
夫は自分が作った離乳食を子供に食べさせながら、にこにことしている。
わたしはその正面で、料理人が作った料理を、フォークとナイフを使って優雅に食べていた。
子供が生まれ、離乳食が始まってから、わたしは夫の手料理を食べることができていない。それを少し残念に思っている自分がいる気がする。
子供が持っていたスプーンをぽいっと放り投げる。スプーンに乗っていた離乳食が、辺りにべちゃべちゃと散らばる。夫は慌てて拾い、少しだけ子供を叱った。
わたしはナプキンで口を拭き、空になった皿を世話人に下げさせる。
「一つ聞きたいのですが」
「なんでしょうか?」
夫がこちらを見ず、子供の方だけを向いて答えるのに、少しだけむっとした。
「どうしてそんなに子供に構うのでしょうか?」
子供の世話など、世話人にやらせればいいとわたしは思っている。子供の世話なんて誰がやっても同じことだろうに。
夫は、離乳食を子供に食べさせようとするが、口を真一文字に結んで拒否されてしまう。それが少し面白かった。
「どうしてかって言われると、わたしがやりたいからとした言いようがありませんね」
「子供の世話なんて大変なだけじゃないですか」
「たしかにそうですね。でも、わたしはこの子と過ごす時間はわずかしかありませんから、少しでも一緒にいたいんです」
それを言われて、はっとした。子供はもう十一か月を過ぎていた。もう一月もない内に、わたしたちは離婚をすることを……思い出した。
「離婚をしたら、わたしはこの子に会えなくなりますから」
夫の声色に隠しきれない寂しさが滲み出ていた。
わたしは口を噤むしかなかった。
離婚後、夫に子供を会わせることはしない。それは始めに伝えてある事項の一つで、契約事項だ。
仮に離婚後に夫に会わせた場合、夫の方に行きたいなどと言い出す可能性は捨てきれない。夫が連れ去る危険性だってゼロとは言い切れない。
これは全て資産を確実に子供に相続するためである。
夫のことは、離婚後はいないものとするつもりだった。夫の資産についても、我が子に相続させるつもりはない。これも契約事項になっている。
「だから、わたしはこの子との時間を大切にしたいのです。この子はきっとわたしのとこは忘れてしまう。でも、わたしは覚えていられます。覚えていたいんです。そのために、どんな小さな思い出も一緒に作っていたいんです」
また、子供がぽいっとスプーンを投げる。夫はそれを拾う。
わたしはそれ以上、何も言わなかった。
いや、そうじゃない。何も言えなかった。
初めてのことだった。伝えたい言葉はたしかにあった。それなのに、言葉にならなかった。
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