わたしは資産を相続する子供を作るためだけに結婚をした

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カウンターの上部にある画面に番号が大きく映し出された。 それは、わたしたちの離婚届を受理する順番がきたことを知らせるものだった。 夫は子供を抱っこしていた。子供は夫の髪の毛を引っ張ろうと、真面目な表情で手を伸ばしていている。 「それじゃあ、行きましょうか」 声色に、表情に、名残惜しさを感じる。必死にそれを隠しているのが伝わってくる分、痛々しい。 離婚届を出しても、すぐに家から出るわけではない。なので、子供と今生の別れまでには、まだいくばくかの時間はある。 けれど、離婚届を出すことは終わりの始まりを意味する。 「……はい、参りましょう」 わたしは腰を上げる。不思議と、腰が重かった。 不意に世話人に肩を叩かれた。世話人は、わたしの持っている離婚届を指差した。 離婚届がぐしゃりとつぶれていた。いつの間にか、力が入っていたらしい。 「あの……」 わたしは離婚届を胸に抱き、夫の肩に触れた。 「どうしました?」 「すみません。力が入ってしまったのか、離婚届がぐしゃっとつぶれてしまいました。……書き直しませんか?」 「え、でも、証人欄とか書かないといけないですから、また、家に戻らないといけなくなりますよ?」 「世話人に書かせるじゃ、ダメ、ですかね」 「多分、大丈夫だと思いますけど」 夫は近くの職員をつかまえて、確認を取り始めていた。 一方で、わたしは混乱していた。 どうして、書き直しませんか、なんて言ったんだろうか。 こんな書面、なんて言ったら失礼だろうが、役所に提出してしまえば終わりの書類だ。手元に保管しておかなければならない契約書とは違う。 だから、多少濡れようが、くしゃくしゃになろうが、正直、どうでもいい。 どうでもいい。 どうでもいい。 どうでも、いい。 どうで、も、い、い。 そのはずなのに、その言葉を繰り返すたびに、胸がきつく締め付けられる。 感じたことのない感情だった。 離婚届は、まるで書き損じ、ゴミ箱に捨てられた原稿用紙のようにぐしゃぐしゃになっていた。 「……大丈夫ですか?」 夫が心配そうに眉根を寄せながら、わたしを覗き込んでいた。 視線と視線がぶつかる。夫の瞳が、すっきりとした目元が、整えられた眉が目に入り込んでくる。 その瞳を見て、わたしの胸はもっときつく締め付けられた。 「汗、すごいですよ。少し、横にならせてもらいますか?」 「い、いえ、大丈夫です。座っていれば落ち着くはずです」 ベンチに座り、深呼吸を繰り返す。何度も何度も何度も繰り返す。でも、呼吸は整うことはなく、ただひたすらに乱れ続け、むしろ乱れがさらに乱れ、一向に落ち着く気配がなかった。 自分の体の異常に戸惑う。 健康状態は悪くないはずだ。最近、健康診断を受けて、何ら問題がないことを確かめている。 熱も家を出る前にないことを確認している。咳やのどの痛みと言った風邪の症状は一切ない。 ただただ、胸だけが苦しい。心臓をつかまれたみたいに、苦しい。 「背中、さすりましょうか?」 「ええ、お願いします」 夫の手が背中に触れる。春の日差しのような、安心感のあるあたたかな手だった。 わたしの落ち着きのなかった呼吸は、夫の手がわたしの背中をさするのに比例して、落ち着きを取り戻していった。 「ありがとうございました」 「落ち着いたのなら、良かったです」 夫がにこっと、優しい笑顔をわたしに向けてくれた。 心臓がつぶれたのかと思った。苦しさが、先ほどまでの比ではなかった。 「それでは、行きましょう」 夫がわたしに背中を向けた。カウンターの方へと右足を踏み出そうと、右足を上げた。 そんな夫の服の裾を、わたしはつかんでいた。 「離婚届、出すのやめませんか?」 始め、わたしはこの言葉を発した人物がわからなかった。 一秒経った。夫が子供と一緒に振り返った。 もう一秒が経った。目が落ちそうな程見開かれた夫の姿があった。 さらに一秒が経った。わたしは自分の口に手を触れていた。 そして、理解した。今の言葉はわたしの口から出た言葉だと。 わたしは一気に混乱の渦に突き落とされた。わたしは自分の言葉が理解できなかった。意味としては理解できる。だけど、わたしはその言葉を発した自分の心情が全く理解できなかった。 そのはずなのに、どうしても理解できてしまうことがあった。 この人と離れるのが、嫌だ。 その想いだけが、胸の中でふくらみ続け、はじけ、言葉となって、口から飛び出していった。。 「……それは、本当ですか?」 夫が膝を着いて、わたしのことを見上げていた。白馬の王子様が目の前に現れたようだった。 わたしは、夫から視線を逸らした。 「……いえ、忘れてください。わたしたちは契約を結びました。それは履行しなければなりませんから」 上手く言えただろうか。人生で初めて動揺をした。だから、いつも通りに言葉を発することができた自信がない。 「……わかりました」 視線を戻すと、そこに夫の姿はなかった。世話人と一緒に離婚届の準備を始めていた。 わたしは大きく息を吐く。そして、少しだけ後悔していることに気が付いた。 でも、すぐに目を瞑る。感情に左右されてはいけない。一度始めたことは最後までやり抜かなかなければならない。これも両親から言い続けられていたことだ。 ……いや、違う。そうじゃない。両親から言われたからじゃない。思ってしまったから、言葉を撤回した。 今更、何を都合の良いことを言っているのだろう、と思ってしまった。 しばらくして、世話人と夫が離婚届を書き終え、わたしのところに戻ってきた。 「それでは、行きましょうか」 三度聞くその言葉に、わたしは首肯した。 カウンターに行き、役所の職員に離婚届を渡す。手続きはあっけなく終わった。建前上は協議離婚であるため、書類上の不備がなければ受理される。 これで、わたしたちの夫婦関係に終止符が打たれた。 それを体現するように、夫……じゃなく、元夫は子供をわたしに渡してきた。子供は夫の抱っこを望んでいたが、それを引きはがすように、わたしは子供を受け取った。 子供が腕の中で暴れ回った。 「パパ、パパ、パパああああああああああああああああああ!」 元夫を見ると、子供が生まれる前から含めて四年、一緒にいた中で、一度だけしか見たことのない表情をしていた。 それは、子供が生まれ、初めて対面した時にしか見せたことがない表情だった。 元夫は、泣いていた。我が子を見つめながら、泣いていた。一条の涙が頬を伝っている。 込み上げ来たものが溢れ出したのではない。無意識の内に漏れ出た涙のようだった。そうでなければ、元夫のことだ。涙を隠す素振りの一つでも見せるはずだ。 「あ、あれ? す、すいません。泣くつもりなんてなかったのですが。未練がましくて良くないですね」 元夫はすぐに涙を拭き、いつもの表情に戻った。いや、どうだろうか。必死に取り繕っているように感じた。 元夫はわたしの少し前を歩き始めた。子供はパパ、パパと連呼し、暴れる。元夫がそれに気が付き、少し顔をこちらに向けようとする。けれど、途中で思い止まり、振り返ることは決してしなかった。 それを見ていて、ふと、思ってしまった。 わたしは、この子と一緒に生きていいのだろうか? そう思った時点で既に答えは出ている。いや、思う前から答えは出ていたのだろう。 わたしはこの子と一緒に生きるべきではない。 そもそも、わたしはわたしの持つ資産を相続することだけを目的として、この子を産んだ。 一年過ごしてみても、この子に愛着が沸くことはなかった。ただただ、わたしの資産を継ぐ存在としか見ていない。 そこでようやく気が付いた。 それは、両親がわたしを見ているのと同じだということに。 わたしは両親が作り出した動くぬいぐるみだった。 両親は、わたしという名のぬいぐるみに、綿という名の両親の生きてきた全てを詰め込んだ。 それはわたしのためではない。この先を物理的に生きることができない自分たちの代理として、自分たちがこの先も精神的に生き続けるためだ。 「……ママ?」 ふと気が付くと、子供がわたしのことを心配そうな表情で見上げていた。 その小さな手が、わたしの頬に触れる。 わたしは泣いていた。 恐らく、物心がつく前の、いやそれよりも前だろう。赤ちゃんだった頃以来の涙だった。 そして、やっと理解した。自分の本当の感情を。 ああ、わたしは嫌いだったんだ。 わたしを見てくれない両親が嫌いだったんだ。 でも、それを主張したところで、何にもならないことを、物心つく前から理解してしまっていた。 だから、自分の感情を抹殺し、両親のぬいぐるみになった。 そうしなければ、心がきっと壊れてしまっていたから。 そうするように、両親に毒されていたから。 「……大丈夫ですか?」 異変に気が付いた元夫が、わたしに近づいた。心配そうに眉根を寄せている。その姿は、眼前にいる子供の表情とそっくりだった。 改めて思う。わたしはこの子と一緒に生きるべきではないと。きっと、わたしは両親と同じことをこの子にしてしまうだろうから。 それは、嫌だった。 両親を嫌いだとはっきり自覚した今、世代を超えて両親のぬいぐるみを務める存在を新たに作り出すことは拒絶したかった。 犠牲は、わたしだけで十分だ。 わたしは、子供をそっと床に下ろした。子供は静かに床に立ち、わたしを見上げた。その少し潤んだ瞳は、元夫にそっくりだった。 わたしは膝を折り、子供と目線を合わせる。そして問う。 「あなたは、わたしとお父さんのどちらと一緒に生きていきたいですか?」 子供は戸惑った表情を見せた。その姿に、一歳の子供の方がわたしより大人だと感じてしまう。 だって、この子は感情を持ち合わせている。だから戸惑う。そして、即座に答えるべき問題ではないことを、理解はしていなくとも、肌で感じ取っている。 わたしなんかではできない芸当だ。 子供の頭に触れた。 「あなたの思った通りに答えてもらって大丈夫です」 子供は逡巡を見せた。しかし、もはや答えは決まっているのを、わたしは知っている。それは当然の答えだ。 だから、わたしは次の子供の言葉に驚愕を隠しきれなかった。 「パパ……と、ママッ!」 子供は、無邪気な笑みをその顔いっぱいに広げ、わたしに両手を伸ばしてきた。 嘘偽りのない言葉だった。気を遣った発言じゃない。本心から出た言葉なのは、間違いなかった。 「……どうして? どうして、わたしなんかと一緒に生きたいと思うのですか?」 わたしはこの子に何もしてあげていない。何かをしてあげていたのは、いつも元夫だった。それか世話人。本当にわたしは何もしていない。それなのに、どうしてわたしなんかと一緒に生きたい、と答えてくれたのだろう。 子供は小首を傾げていた。さすがに答えるのは難しいようだった。その代わりに、また、両手をわたしに突き出してきた。 「ママ、抱っこ!」 喜色満面でわたしを見つめてきた。 「抱っこ、してあげてください」 元夫は、膝を折り、いつの間にか同じ目線になっていた。 「あなたがこの子のことをどう思っているのかは、正直わかりませんが、この子は、あなたのことが大好きなんですよ。この子は知っているんです。あなたのあたたかさを。だから、一緒に生きたいって思うんです。あなたはあたたかい人だから」 「わたしが、あたたかい?」 「あなたは気が付いていないでしょうが、あなたは皆から好かれているんですよ。例えば、そうですね、両親から継いだ会社は、おそらく部下が優秀だから、上手くいっていると思っていませんか?」 「その通りだと思いますが」 「たしかにそれはそうかもしれません。だけど、優秀な人材はどこも欲しい。少なからず、引き抜きのために声がかかっているでしょう。実際、わたしは数人に声がかかっていることを知っています。それにも関わらず、あなたの元から去ろうとしていません。あなたが会社を継いでから、退職者は、定年を除いてはいないはずです」 言われてみればそうかもしれない。日々のデータは全て目を通しており、退職者の情報も含まれている。だが、退職者が出たという情報は見たことがなかった。 「気が付いていないようですが、あなたは何かあれば部下を懸命に守るし、部下がミスをしたら、相手企業に一緒に頭を下げるのも厭わない。それが自分の会社よりも小さな企業であったとしても、関係がない」 「それは、それが当然だと思っているからです。部下が何も悪くなければ守り、ミスをすれば相手方が誰であれ謝るのは当然のことです。会社を経営する者として、当たり前の行いです。それに、わたしなんてちっぽけな存在です。そんなわたしができることなんて、それぐらいなものですから」 「それが、あたたかさですよ」 元夫の言葉が全く理解できなかった。 「あなたはそう思っていなくても、周囲の人は、そう思っています。たしかにあなたの会社の部下は優秀です。でも、それを引き出しているのはあなたなのです。あなたがいるから、あなたが一緒に戦ってくれるから、安心して最前線で戦えるのです。ちなみに、あなたの両親が会社を経営していた頃のデータは見たことがありますか?」 もちろん、見たことはある。そういえば、毎年、退職者が大勢いた記憶がある。その分、新規採用者も多かったが、定着率が低かったことも記憶にあった。今は逆に、辞める人間がいないので、採用は最低限に絞るよう指示をしている。 「あなたの両親は冷血でした。このような表現を子供であるあなたに言うのは、どうかと思いますが、実際、そうでした。あらゆるものを数字と合理性だけで判断し、ミスを見つければ叱責をこれでもかと飛ばし、自分がミスしても、絶対にそれを認めない方々でした」 それはわたしが一番よく知っている。その犠牲に一番あったのも、おそらくわたしだろうから。 正直、頭を下げるのを厭わないのは、両親が理由だ。両親に容赦なく叱責されては、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。だから、謝罪の言葉を口にすることは、わたしにとっては、あいさつすることと何ら変わりはない。それで怒りが収まるのなら、安いものだ。 「けれど、あなたは違う。あなたは血が通った人間です。あなたの両親などとは比較にならない程の、あたたかい人間なのです!」 元夫の言葉に熱が帯びていた。 「……わたしもそれに救われた人間ですから」 「……え?」 「それはそうとして、この子はあなたと一緒に生きることを望んでいます。だから、この小さな手を離さないであげてください」 元夫は、子供とわたしの手を繋いだ。子供はまだ生えそろわない歯を、ニッと見せて笑った。 元夫の手がゆっくりと離れようとする。だが、それを子供が阻止した。 「パパとママ!」 元夫の手を子供がつかみ、わたしと手を無理矢理繋がせた。 そうだ。この子は、わたしと一緒に生きたいとは言っていない。わたしと元夫。二人と一緒に生きたいと言っていた。 「……パパはもう、離れないと」 「嫌ッ!」 元夫が困り果てた表情になる。 それを見て、わたしは自分の頬が緩むのがわかった。そして、自分の本当の気持ちをはっきりと理解した。 わたしはこの子と同じ気持ちだ。わたしはこの人と一緒に生きていきたい。 そして、わたしと同じ気持ちのこの子とも。 わたしは元夫の手を強く握り返した。元夫の目が見開かれる。その元夫を見て、自分の心が楽しくて、楽しくて、楽しくて、跳ねるのがわかった。 自然と、笑みがこぼれていた。 「子供がお願いしているのです。これは受け入れるしかないのでは、ないでしょうか」 「……でも、契約は」 「知っていますか? 契約は変更契約という形で変更できることを」 元の契約を変更することは認められている。 だから、契約があったとしても、その契約を双方の合意の元で変更してしまえばいいだけの話だ。 「最も、あなたが良ければの話にはなりますが」 「……契約は、結びません」 思い切り頬を叩かれたのかと思った。しかし、頬は痛くなかった。でも、次の瞬間には、心の中が踏み荒らされたかのように、痛くて、苦しくなった。 わたしはがっくりと肩を落とした。目の前が真っ暗になっていく。まるで底がわからない穴の中に放り込まれたような気分だった。どこまでも気持ちが落ちていく。 ああ、これが絶望。 でも、これは受け入れないといけない。契約は、そもそもわたしが言いだしたことだ。それを拒絶する権利が元夫にはある。それで傷つくなんて、傲慢もいいところだ。 ……でも、心が痛かった。こんな経験は初めてだ。両親にどれだけ叱責されようと、どれだけ無視されようと、どれだけぬいぐるみ扱いされようと、こんなにも心が痛むことはなかった。 それなのに、たった一言、元夫が言った、たった一言で、心臓が握りつぶされ、その上でさらに踏みつけられたかのように心が痛んだ。 だけど、自業自得だ。両親が蒔いた種であったとしても、花を咲かせたのはわたしだ。 最終的に両親の決定に従っていたのはわたしだ。拒絶することはできたはずだ。反抗することは少なくともできたはずだ。自分の気持ちを吐き出すことはできたはずだ! でも、それもせずに、両親に反抗するのは無理だと決めつけ、諦め、両親のせいにして、生きてきた。生きてきてしまった。 そのツケが、今、回ってきたのだ。 だから、自業自得だ。自分のせいだ。自分が愚かだっただけの話だ。 わたしは下唇を噛み締め、泣きたいのを必死にこらえた。ここで泣くことは、元夫を責めているも同じだ。それだけはしたくなかった。 噛み締め過ぎた下唇から出た血の味が舌に広がった。 だが、それは元夫によって拭われた。 「……わたしは思うんです。一緒に生きていくのに、契約は必要ないって。必要なのは、家族みんなが一緒にいたいと願う気持ちだけだと」 元夫はわたしに向かって膝をついていた。 「わたしはあなたと、そしてこの子と一緒に生きていきたいのです。契約など必要ない。そんなものがなくても、そんなもので縛らなくても、共に生きていきたいという気持ちが揺らぐことはありません!」 元夫は、そのまっすぐな瞳の中にわたしだけを取り込んだ。 「約束します。わたしはあなたの傍から決して離れない。死が二人を分かつその瞬間まで、一緒に、一生、あなたと生きていきます!」 元夫は、わたしに手を差し出した。 「もしも同じ気持ちでいてくれるのなら、わたしの手を取ってください!」 わたしは元夫の手を取ることはしなかった。 だって、わたしは元夫に抱き着いていたから。 「わたしは、一緒にいたいです! あなたと一緒に、一生を生きていきたいです!」 こらえきれなかった。涙が、溢れ出してくる。止めどなく、涙が飛び出してくる。止まらない。止まらない。全然、止まらない! それは元夫……いや、夫……そうじゃない! 溢れる涙を流していたのはわたしだけではなかった。大切な、心から大切に思い、一緒に生きていきたいと願う人も同じだった。 役所の中で泣きながら抱き合う大人が二人。こんな滑稽な光景はないだろう。 でも、笑い声は一つも聞こえてこなかった。そこで溢れていたのは、拍手だった。まるで素晴らしい観劇を見終えた後、観客の全員が立ち上がり、出演者に浴びせる喝采の拍手だった。 けれど、不意に一つの笑い声が響き渡った。 「パパ、ママ、泣いてる! 面白い!」 笑っていたのはわたしたちの子供だった。 もう一人の大切な存在が、わたしたちの泣き顔を見て、指を差して笑っていた。 周囲もそれにつられるようにして、笑い声が次々に上がっていく。 ふと、気が付いた。この子の口元、爪の形、耳の形がわたしに似ていることに。 そこでようやく自覚できた。わたしはこの子を産んだんだと。 そういえば、わたしは笑った記憶がなかった。 それは、悲しいことなのだろう。 だけど、それでよかったと、今、はっきりと思えた。 わたしは右手を広げ、夫とわたしの間に、我が子を招きいれるスペースを作った。 それに気が付いた我が子が、そのスペースに飛び込んでくる。 そして、三人が同時に顔を見合わせ、破顔した。 だって、こんな素敵な場面が初めての笑顔のシーンなんて、最高じゃない! ~FIN~
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