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わたしは資産を相続する子供を作るためだけに結婚をした。
そして、今、離婚届を手に役所に来ている。
これは結婚する前に約束していたことだった。
わたしたちはあの日に約束をした。
子供が生まれ、一歳になった時に離婚するという約束を。
わたしは周囲がうらやむほどの資産を持つ家に生まれた。
最も、それが幸せに直結するわけではないことを、わたしはよく知っている。
たしかに、お金での苦労はなかった。食べ物はいつも料理人が作る栄養バランスの取れたものだった。おやつでさえも毎日手作りだったし、学校には世話人の送迎つきだし、服だってブランドものばかりだ。
いつかは家を継ぐのだから、そのための知識や体力はつけておくべきだと、両親はわたしに物心ついた時から休みなく習い事をさせた。
バイオリン、英語や中国語などのあらゆる言語学習、ピアノ、家庭教師がつきっきりでの勉強、水泳、体操などなど。
挙げれば枚挙に暇がない。
けれど、心が満たされることはなかった。
なぜなら、そこに自分が希望したものなど一切存在しなかったから。両親がわたしにこうなって欲しいという、両親の希望ばかりを押し付けられた。
まるで、わたしは両親のぬいぐるみだった。
体、脳の全てが自分の意志ではなく、両親の意志で動かされている。
反発しようとも思わなかった。物心ついた時から、言ってしまえば洗脳に近い状態になっていた。だから、わたしは両親の意志がなければ、まともに思考すること、体を動かすことすらもできなくなっていた。
そんな日々がずっと続いた。気が付けば、わたしは両親の会社を継いでいた。
三十歳の春。わたしは両親が築いてきた会社のトップに据えられていた。
自分で言うのもなんだが、能力はあった。小さい頃からの英才教育の賜物と言えるだろう。決して、最初から持っていたものではない。あくまでもわたしの全ては、両親によって後天的に身につけられたものだ。服や靴、といった装飾品と何ら変わりない。
わたしがトップに就任することに関して、特に反対の声はなかった。両親が圧力をかけ、反対意見を言えない雰囲気を構築していたからだ。反対意見を言おうものなら、会社から追い出されてしまう。
最も、会社の経営はわたしがいなくても全く問題がなかった。わたしの部下たちが非常に優秀だったからだ。わたしはお飾りみたいなものだった。
そんな冬のことだった。
わたしは突然、両親に実家に来るよう言われた。そして、突然告げられた。
「俺とこいつは、そろそろ死ぬ」
何を言われたのか、理解ができなかった。
「どういう事でしょうか、お父様」
「言葉通りの意味だ。俺たちは死ぬ。ただそれだけだ。余命、いくばくもない」
両親はそれだけ言うと、すぐに席を立った。それが最後の会話になった。
詳しいことを世話人から聞くと、両親共に病魔に侵されているとのことだった。春に会社の席をわたしに明け渡したのも、それが理由だったらしい。
そして、両親はその言葉通り、次の春を迎えることなく、あっけなく亡くなってしまった。
特に悲しくはなかった。両親から様々なものを押し付けられた記憶はあれど、わたしの希望を叶えてもらった記憶はないせいだろう。他人が死んだのとさして変わらない感情だった。
子供はわたし一人しかいなかったから、淡々と、両親が亡くなった後の処理を進めた。
最も、立つ鳥跡を濁さずの如く、ほとんどの整理は生前に行っていたようで、わたしにかかる負担はほとんどなかった。
わたしのためではないことは、推察できる。最後まで完璧であろうとしたのだろう。両親は常に完璧を求めていたから。
そして、次の夏、わたしは結婚をした。
別に好きだとかいう、感情ではない。両親の遺書に書かれていたことを実行しているに過ぎない。
結婚し、子供を生み育て、その子供に資産を相続させなさい。ただし、子供が一歳になった時には離婚すること。
そう、遺書に書かれていた。
わたしは両親からの遺書に基づき、結婚を決めた。子供を生み育てるためだけに、結婚を決めた。
結婚をしなくても、子供は生めるし、養子をとることもできることは知っている。けれど、両親は結婚するようにと遺書に書いた。
だから、わたしは結婚しなければいけなかった。
わたしは結婚相手を、両親から預かっていた、お見合い名簿に記載のあった人物から選んだ。
もちろん、相手にはわたしの、というよりかは両親の意向ではあるが、それを伝えた上で、承諾してくれる人に限った。
結婚すること。子供を生みたいこと。一歳になったら、離婚すること。
この奇妙奇天烈な条件を真っ先に飲んでくれた相手は、取引先でもある大手企業の社長の息子だった。
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