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真夜中に誘われて(出会い編)
「やめて下さい。止めないと本当に切りますよ」
泡だらけの顎に剃刀を当て彼は男を睨みつけていた。
「だーってしょうがねぇだろう?アンタのケツが俺の脇を行ったり来たり。暇なおててがつい誘われちまうって事あるだろう?」
「ありませんよ!そんな事!」
睨まれて男は、理容室の椅子に寝そべり、この若い理髪師の魅惑的な尻から手を離した。
◆
この理髪店に通い始めたのは秋も深まる11月頃の事だった。
華々しく稼ぐ後輩のホスト達を尻目に、もう中年に片足突っ込んでいた俺は何とも寒々しい季節だった。
散々呑まされた仕事の帰り道、偶然にも通りかかった裏道にその店はあった。
「なんかな〜髪でも切るかな〜」
そんな気になったのは、真夜中だと言うのに煌々と明かりがついている理髪店に気がついたからだ。
普通、水商売でも無い限り、もう店はどこも閉まっている時間帯だ。なのにこの店の表に立っている回転灯は赤白青の螺旋がぐるぐる回って、酒の入った頭に目眩を起こさせた。
酔い覚ましに買ったコーヒーを飲みながら、ポツンと佇むこの理髪店をぼんやり眺めていた時だ。ふと、扉が開いた。
ようやく店じまいなのか、清潔感漂う佇まいの若い男が中から出てきた。
仕立ての良いベストにスラックス。白いワイシャツをきちんと着こなした姿は、今時の理髪店でも珍しく、何処か昭和の匂いを感じさせた。
掃き溜めに鶴とでも言うのか、こんな歓楽街の片隅にあって、この男の精錬さがなんとなく眩しかった。
「あのぉ〜、もうお店終わりだよね?」
声をかけていた。
「ああすみません、ちょうど今」
男の手には回転灯の抜かれた電気コードが握られていた。
「仕事のお帰りですか?」
「まあ、そうね。うん、帰りだ」
少し呂律がおかしかった。だが理髪店の男は少し逡巡したが、店の扉を開いて中へと招き入れた。
「どうぞ。お入り下さい」
手にした回転灯のコードを再び挿し直す律儀さが、この男を物語っているように思えて可笑しかった。
店の中はこの男が経営している事が分かるような、昭和な雰囲気を漂わせていた。
昔っぽい洗髪台。簡素な鏡。待合は白で統一された清潔感のあるソファや椅子。華奢なテーブルには細長い花瓶に一本だけ、何の花だかも分からない花が飾られていた。
「どうしましょうか?洗髪台は仰向けと俯せと、どちらがが良いですか?」
見れば小さな店内に二台の洗髪台が並んでいた。
「へえ、珍しいな。大抵理髪店は俯せが多いのに」
「意外と女性のお客様もいるものですから。女性は美容室のような仰向けの洗髪台に慣れていらっしゃるみたいで」
「理髪師と美容師ってどこが違うんだ?」
「基本は一緒です。免許が分かれているだけの事です。理髪師と美容師。出来る事も、慣れているか慣れていないかで。髭をあたるのは大概、理容室ですから、美容院だと断られてしまう事もあるみたいですね」
「ふぅん、そんなものなのか。
じゃ、俺は仰向けで。今の俺には下向きだとゲロ吐いてるみてーだ」
下品な冗談に、困った笑顔で理髪師の男は洗髪台の椅子に俺を座らせると、首にあのひらひらしたケープを掛けた。
「これ、なんとかなんねぇか。なんか赤ん坊みてぇで、好きじゃねえんだ」
「これをしないと切った短い毛がチクチクしますから、しばらく我慢を。
カットどうなさいますか?かなり短くしますか?」
鏡の中の理髪師の男が俺を見ている。鏡越しに見ると、なかなかの男前だった。
「アンタ、モテるだろう。イケメンだもんな」
鏡の顔をニヤニヤ見ていると、彼の顔が赤らんだ気がした。こんな隙のない感じの男でもこう言う顔をするのかと思うと、なんとなく可愛げのようなものを感じる。
「イケメンなんかじゃありませんよ。揶揄わないで下さい、で、どうなさいますか?」
「適当で良いや、アンタに任せる」
元来、俺は無頓着だ。客が不愉快にならない程度なら何でも良かった。
誰かに髪を洗って貰うってのは、死ぬほど心地良い。遠い昔に誰かに髪を優しく撫でられた記憶が蘇る。
うっかり寝そうになってしまう。
「お客さんのお仕事はやはり夜のお仕事なんですか?」
「まあな、こんなナリで酔っ払った男の仕事なんて、想像つくだろう?」
「なら、身だしなみは大事ですからね。うちが開いていて良かったです」
ああそうか、この男が最初に仕事帰りかと聞いたのは、これを心配しての事だったのかと気がついた。
「良いなあ、兄ちゃん。アンタ、気に入ったぜ」
「ははは、それはどうもありがとうございます」
美辞麗句な会話をしているつもりはなかったが、相手はそう受け取ったらしかった。
彼のカットの手捌きは俺に言わせれば芸術的だった。
細く長い指に繊細なハサミが良く似合っていた。
そこから繰り出される耳障りの良いカット音がリズミカルで、酔の回っている俺の眠りを誘った。
「髭はどうしますか?あたりますか?」
「んー、頼む…、」
洗髪し、散髪し、髭を当たってもらう段階になると、俺は殆ど意識を失いかけていた。理髪師の質問にも適当に返事を返し、暖かい蒸しタオルに顔を包まれた頃には、そのふんわりとした心地よさに俺は意識を手放していた。
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