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カラン、というドアベルの音とともに入ってきたのは一人の男だ。バーテンダーはいらっしゃいませ、とだけ言った。明らかに男は疲れ切った様子だからだ。
静かな空間、心地よいジャズ。客も大声をあげるような酔っ払いはいない、ここは大人の時間を過ごすバーなのだ。店はもうすぐ閉店時間が近い。テーブル席に男が三人座っているだけで店内ガランとしていた。カウンター席についた男にバーテンダーは注文を聞く。
「……入っておいて悪いんだが。酒飲めなくて。ソフトドリンク、何かオススメを」
「かしこまりました」
嫌な顔ひとつせず、初老のバーテンダーはカクテルを作るように何かを作った。ウィスキーに使うグラスに注ぎ差し出す。淡い茶色、カルーアミルクのような見た目だ。
「カフェオレです」
「ありがとう」
一口飲み、美味い、と呟く。
「何やらお疲れのようですね」
普段雑談をしないバーテンダーだが、この男には話しかけた。話を聞いた方が良さそうだな、と思ったからだ。
バーテンダーは夜の町を生きてきた。老若男女、様々な人生のドラマがある。放っておいた方がいい者、話をした方がいい者、本当に様々。そういった者達を数多く見てきたバーテンダーは話を聞くという選択をした。
「……ここはバーだから。酔っ払いの戯言だと思ってもらえるよな」
酒が飲めずまったく酔っぱらっていない男。それでもバーテンダーはもちろん、と返事をする。
「俺はな、泥棒なんだ」
「おや。そういえば世の中謎の怪盗が出て大騒ぎですね。昔ながらの怪盗っぽく、予告状からの華麗な盗み。テレビで生放送されてる中盗んで一躍有名になった人がいますね」
「怪盗エックス。……俺の事だ」
カラン、と氷が溶けてぶつかり合い音が鳴る。カフェオレに使われている氷はロックアイスで見ていて美しい。
「昔有名だった伝説の怪盗に憧れて盗みの技術を磨いた。どんな物でも絶対盗む。超能力じゃないかって言われてるな」
はあ、とエックスはため息をついた。
「嬉しくないのですか?」
「聞いてくれるか。俺の苦悩と悲劇を」
ポツポツと語る、怪盗エックスの話。それはこんな話だった。
華麗で見事な盗みさばき、伝説となった怪盗がいた。俺もこんな怪盗になりたい、と技術を磨いた。超能力なんてとんでもない、全て努力の賜物だ。エックスは努力を惜しまないのである。
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