佐野雪歩は気づいてしまった

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佐野雪歩は気づいてしまった。 その日は彼女の十七回目の誕生日だった。 正確には誕生日の夜。 彼女はいつも通り二十二時にベッドに潜り込み目をつぶった。 これもそれも健やかな生活の維持のためと単純に彼女はこの時間になるともう眠かったのだ。 時系列を少し戻す。 スーパーの総菜売り場でのパートを終えた彼女の母親は娘の誕生日のお祝いのため勝手知ったる地下の食料品フロアで手当たり次第に食材を籠にぶち込む蛮族と化し、張り切って帰っていった。 家に帰ると母親は手を洗いうがいをし、食材を冷蔵庫に放り込み娘の弁当の残りのだし巻き卵とタコさんウィンナーをバターロールにはさんだものを二つ食べ牛乳を飲んで体力を回復すべく昼寝に入った。 母親は十六時を過ぎると猛然と動き回り、しこたま鶏の唐揚げを揚げ、前日に用意しておいたハンバーグを焼き、お弁当箱に詰めると二十分自転車を漕ぎ続け、市内に住む夫の実家へ届けると、姑から求肥の入った最中とおにぎりせんべいとポテトチップスのりしお、梨三つが入った紙袋を受け取り、舅からは「トマトジュースあるから持って帰りなよ」という有り難いお言葉をいただいたのでそれも自転車の籠に乗せた。 その帰り道に洒落た外観のパティスリー(店名はフランス語らしく母親は未だに憶えていない)で一か月前から予約していた五号サイズの苺のショートケーキを恭しく受け取り帰宅した。 何もかも予定通りだった。 その予定通りに動けたことに母親は満足した。 佐野雪歩の十七歳の誕生日のお祝いは十九時から母、姉、本人、妹の四人で地味に始まった。 クラッカー、お誕生日の歌、ローソクを吹き消すなどは彼女が望まなかったた 例年通り行われなかった。 隣に座る母はあれも食べろこれも食べろと甲斐甲斐しく世話を焼き、向かいに座る大学生の姉は推しアイドルのインスタが更新された話をし、家族にいいねをするように言ったので、皆それに淡々と従い、国民的アイドルが先輩アイドルと餃子を頬張っている有り難い写真を目に焼き付けることとなった。 姉の隣に座る中学生の妹は流行っている漫画の話をしているが家族の誰一人としてその漫画を読んだことがないので、それが昨日の晩話していた少年の話なのか、はたまた違う少年の話なのか誰にもわからなかった。 父親は平日なので仕事で不在だった。 佐野雪歩は懸命にたらふく食べた。 食後にはケーキを四分の一と大好きなイチジクを六つも食べた。 姉がシャトレーゼでアイスを大量に買って来てくれて「好きなの食べていいよ」と言ってくれたので彼女は「糖質70%カットのやつ全部食べる」と言った。 姉が「ベルギーチョコレートは私が食べる」と言うので彼女は「じゃあそれ以外で」と言い、姉に丁寧にお礼を言った。 妹は「これ面白いから読みなよ」と言い漫画を二十冊彼女の部屋に持ってきた。 それは妹が去年ドはまりし、彼女から発せられる言語の全てがそれに変換されていた時期があったにもかかわらず年が開けてみれば憑き物が落ちたが如く顧みられなくなった代物であったが、彼女は黙って受け取り彼女の貧弱な本棚に収容されることとなった。 恐らく彼女はそれを読まないだろうと思ったし、読む予定を組まなかった。 母親は「何でも好きなもの買いなね」と言って可愛らしい少女達の描かれた彼女の知らないゲームのキャラクターのクリアファイルに入れて現金を手渡し「こっちはお祖父ちゃん、お祖母ちゃんからね」と言ってピンク色のハローキティーのポチ袋を彼女が小学校から使っている学習机の上に乗せた。 それは今年のお正月にお年玉をくれた袋と同じだった。 それも毎年のことだった。 彼女は祖父母の自宅に電話をし、お礼を言い、近いうちに顔を見せる約束をして通話を終えた。 彼女が風呂から上がると仕事から帰った父親はウーロン茶片手に唐揚げを摘まみながら、ニュースを見ていて、彼女を視界に入れると「雪歩ちゃんおめでとう」と言い「早いねー」と言った。 彼女は「ありがとう」と言いコップ一杯の水を飲み、おやすみなさいと言って自室へ下がった。 そして冒頭に戻る。 彼女は気づいてしまった。 もう残りの人生でしたいことがない、と。 十七歳でこんなこと考えるなんて馬鹿げているとも思った。 今日は九月の一日で新学期が始まって数日経っていた。 思春期特有のあれだ、そうに違いないと思ったが、ふとよぎった「したいことがない」というワードは彼女を思考の海に沈めるには十分すぎる得体のしれぬ破壊力があった。 だが頑健な彼女の肉体は眠りを選んだ。 彼女はすよすよと安寧の微睡に祝福され、十七歳最初の夜が彼女の与り知らぬところで過ぎて行った。 朝目が覚めても佐野雪歩の今後の人生でしたいことがないモードは続いていた。 私もうしたいことないんだと彼女はやけに冴えた頭で考えた。 それはとても寂しいことだが、同時に何故か彼女は高揚していた。 そして必死にしたいことを考えようとしてみた。 母親が起こしに来たので一時思考を中断させ、朝やるべきことを取りあえず済ませ、食卓に着いた。 お味噌汁とご飯と焼いた鮭の切り身、ちりめん山椒、味のり、目玉焼き、透明のサラダボウルにはプチトマト、それらを見渡し彼女は思った。 食べたい。 これは欲求であろう。 だがそれが残り何年あるかわからない人生で明確にしたいことだろうか。 どうしてもこのしたいことがないという迷路から彼女は抜け出せなくなってしまった。 誰にそそのかされたわけでもないので余計に厄介だった。 自らこの難問を解かねばならない。 私はしたいことがない。 そう考えつつも彼女はしっかりと朝ごはんを食べ、学校へ向かった。 高校へは毎日徒歩で一人で向かっている。 歩いて十分ほどなのと近所に同じ高校の子がいないので入学した時からそうだった。 すなわち「したいことがない」を考えるのに最適な最高の環境であった。 したいこと、したいこと。 彼女は必死で考えた。 何一つ思いつかなかった。 寧ろしたくないことならいくらでも思い付くようだった。 駅前に一軒だけあるショッピングモール以外彼女が住む街は娯楽施設というものがなかった。 これは彼女にとって大した問題ではなかった。 彼女は都会に打って出て電車に箱詰めにされて毎日労働に勤しむと言うのも余り想像できなかったし、ぼんやりとしたくないことにそれは含まれる気がした。 十八になって免許を取ることも想像したが、父や母が運転する車に乗るのと何が違うのかわからないので、それはしたいことにはならないと思った。 飛行機なら家族旅行でも修学旅行でも乗った。 船も乗った、新幹線も乗った、バスも乗った、ケーブルカーにも乗った、地下鉄も乗った、ジェットコースターにも乗ったし、観覧車にもメリーゴーランドにも乗った、エレベーターもエスカレーターも乗った。 もう乗り物はいい、十七歳にして乗り尽くした。 そういえば馬に乗ってないなと思ったが、乗りたいかと問われたら乗りたくない気がしたのでもういいと思った。 海にも行った。 山にも行った。 水族館も動物園も植物園にも行った。 神社もお寺もそこそこ見た。 何処もそう大差ないだろうと浅すぎて底が見えている知識でそう結論付けた。 したいこともなければ行きたい所もない。 学校に着くといつも通り部室に向かう。 部活は中学同様小学校からスポ少でやっていたバドミントン部に所属している。 中学時代も高校に入ってからも朝練も放課後も休日も一日も休まず続けてきたが、これは本当にしたいことなのか考えるとそうでもない気がした。 明日からもうしなくていいよと言われたら、ああそういうものかなと思い、二度とシャトルもラケットも使わない生活になってもそれを簡単に受け入れられる気がした。 友達と着替えながらいつも通り所謂雑談をする。 好きなアイドルの話、俳優の話をする彼女達に相槌を打ち、こうなったら私も誰かを推してみようかと考え、中学時代陸上に打ち込んでいた姉が高校に入ってから部活もせず、放課後はバイト、土日もバイトと時間と労力を一人の男性に捧げていた過去と現在を思い出し、思わず首を左右に振った。 この六年間姉はそこそこの資金力を得たが、推しとの縁がなさすぎるのかコンサートに行けたのはたったの一度である。 それも豆粒のような推しを見ただけ。 軍資金を用意できても、どれだけ神に祈っても会えないそれが超人気アイドルというものなのだ。 アイドルはない。 妹のように二次元もない。 そもそも漫画を読むという行為が彼女は酷く面倒だと思っていた。 音楽はそこそこ聴くが、人生の最後にこれを聴きたいと思えるようなものには未だに出くわしたことはなかった。 アプリゲームも友達がやっているのと同じ物を時間つぶしにやっているだけで、はまっていなかった。 彼女は「音楽もゲームも漫画もテレビも明日から禁止な」と巨大な力に通達されたとしても平気で生きていける気がした。 聴きたいものも見たいものも触れたいものも何もなかった。 授業はいつも通りつまらないけれど、ちゃんと聞いていないとわからなくなってしまうので耳をしっかりそばだてた。 このまま順調にいけば姉同様地元の国立大学に行き、地元で就職するだろう。 それはほんとうにしたいことだろうか。 窓の外を見ても答えは何処にもなかった。 お昼になったので母親の作ったお弁当を彼女は友人達と食べた。 お弁当のおかずはチーズを巻いた卵焼き、ブロッコリー、プチトマト、きんぴらごぼう、ミートボール、ご飯の上にはしそわかめふりかけ。 母親が作ってくれたお弁当はいつも通り美味しく彼女の空腹を満たしてくれた。 食べ物。 これではないかと思った。 彼女は食べることが好きだった。 だが、それは生きる理由になりえるのかとまたもや自問自答が始まり、答えの出ないまま放課後になり、部活を終え、家に帰った。 ひとまず彼女は整理した。 したいことはない。 だがこれだけは絶対にしたくないことが明確にあるわけでもないような気がしてしたくないことについて考えてみた。 戦争には行きたくない、犯罪行為に手を染めるなど言語道断。 髪を染め、派手に着飾ることにも興味はもてなかった。 成人してお酒を飲む、タバコを吸う。 彼女は母親同様健康志向なので人体を損ねることになるような可能性のあるものは最初から論外だった。 豪遊について考えてみたが、彼女の貧困な発想ではシャンパンタワーしか思いつかなかった。 散財についても考えてみたが欲しいものが何一つ思いつかなかった。 十七歳にしてこんなになってしまうとは。 これは悟りというものだろうかと彼女はまたしょうもないことを考えた。 そしてベッドに入って閃いた。 それは一番どうしようもなくこれまでに沢山の人類がいくらでも考えたであろう愚かで凡庸な考えだった。 来年の誕生日までにしたいことが見つからなかったら思い切って死のう。 彼女は自分で導き出された最も短絡的な情けない考えに満足し、ぐっすりと眠った。 夢も見なかった。 翌日は土曜日だったので部活へ行き、帰りに友人達とマクドナルドに寄った。 彼女はあと何回このポテトを食べるだろうか、シェイクを飲むだろうか、テリヤキバーガーを食べるだろうかとしんみりと考えたが、生き続ける理由としてはやはり弱い気がした。 彼女は友人達に今後の人生でしたいことはあるかと尋ねようかと思ったが、推しがいる彼女達はしたいことだらけだろうと思われたのでやめておいた。 彼女が家に帰ると母親が「コロッケ揚げたからお祖母ちゃんちへ持って行って」と待ち構えていたので彼女は「ただいま」も言わず手渡されたタッパーを自転車の籠に乗せてペダルを漕いだ。 祖父母の家に着くと、お誕生日プレゼントのお礼を言い、冷たい麦茶を飲ませてもらった。 彼女は二人に残りの人生でしたいことはあるかと聞いてみようかと思ったが、何もないと言われてもそれはそれで悲しいのでやめておいた。 祖母が雪見大福ならあるけどと言ってくれたが、マクドナルドでアップルパイを食べバニラシェイクも飲んでお腹がいっぱいだったのでいい、いい、と両手を振った。 帰りに祖母がコカ・コーラとカルピスソーダのペットボトルをビニール袋に入れてくれたのでそれを持って帰ろうとすると祖父が「ヤクルトも持って帰り」というので彼女は「家にあるから」と言いサドルに跨った。 彼女の家の冷蔵庫には常にヤクルトが常備されていた。 母親は彼女が物心ついた時からシロタ株を信じ切っていた。 数年前からは球団まで応援し始め贔屓の選手は山田というらしく、彼を実の息子のように心配し、謎の母親気取りでいた。 家に帰り昼食はマクドナルドだったことを告げると彼女の母親は「トマトジュースを飲んで」と言って自らグラスを出して来てなみなみと注いでくれたので彼女はそれを一気に飲み、こんな風にいつも自分を気遣ってくれる母親がいるというのに自分はしたいことがないからという世にもマヌケな理由で儚くなろうとしているのが申し訳なかったが、一度憑りつかれたものは彼女一人の力ではどうしようもなかく彼女は揚げたてのコロッケをじっと見つめた。 死ぬまでにこれだけはしたいってことはないだろうかと彼女は湯船につかり考える。 思いつかなかった。 まあ容易に思いつくなら来年の誕生日に死のうとは思わないよなと自分で自分を慰めた。 したいことがないならすべきことはないだろうかと考えた。 漠然と親孝行という言葉が思い浮かんだが、したいことがないから死ぬだなんて計画を立ててる時点で親不孝以外の何物でもないと思ったので、それは保留となった。 自分が死んだら家族が悲しむだろうことは彼女には痛い程わかり切っていた。 だが、このままの毎日がずっと続くなら特別続いて欲しいと彼女には思えなかった。 したいこと、すべきこと、したくないことをぐるぐると考え彼女はしたことないことって何だろうと考えた。 風呂から上がり、髪を乾かし、ちまちまと動画を見て、ベッドに潜り込んだ。 したことないこと。 何故か真っ先にスカイダイビングが思いついたがそれはどう考えても彼女のしたくないことに分類された。 スキューバダイビング、バンジージャンプ、ロッククライミング、釣り、ソロキャンプ。 彼女はスマホを手に取り「死ぬまでにしたいこと」を検索し、それを英語ではバケットリストということを知り、取りあえず見ず知らずの成人女性と思われる人物のものを見ていった。 行きたい国、見たいものは旅行に分類されるので除外。 彼女は特に何処の国にも関心が持てなかった。 皆既日食、皆既月食、ハレーすい星、オーロラもいいと思った。 満月も三日月も何度も見た。 太陽の眩しさにも何度も目を細めた。 青い空も赤い夕焼けももう何度も見た。 夏の暑さ、冬の寒さももういい、飽きた。 それよりもしていないこと、それが最優先だ。 ゴルフ、ヨガ、コスプレ、グランピング、ボルダリング、全身脱毛、海外移住、全身グッチ、ホストクラブで豪遊、外国人の彼氏を作る。 彼女は気づく。 私はまだ誰かを好きになったことが一度もない。 これならできるのではないかと。 だがこれは難しかった、何故ならこれには相手が必要不可欠だったからだ。 またしても彼女は行き詰った。 そして寝た。 気が付けば朝だった。 日曜日も部活だった。 帰りに友人達とミスタードーナツに行き、本屋に寄って帰った。 冷凍庫を開けると食べていいと言われていた姉が買ったくれたアイスクリームはもうバニラが一つしか残っていなかったので彼女はそれを食べた。 月曜日学校に行き、教室中を見渡した。 男子だけじゃなく女子も見た。 その日一日中登校時から下校時までひたすらキョロキョロとして見たが好きな人を見つけることはできなかった。 そうして三日過ごしてみたが彼女は恋を見つけることはできなかった。 彼女が気づいてしまった誕生日から一週間後、彼女のクラスに転校生がやって来た。 本来なら始業式から登校予定だったのだが、入院していたそうで今日になったらしい。 彼の名は石崎雄馬。 彼女は彼を一目見て思った。 この人なら好きになれるかも。 彼は昨日まで彼女の人生にいなかった。 なのに彼は唐突に現れた。 運命としか思えない。 彼女は三段で終わる階段を駆け上がるような発想をし、彼を好きになろうと決めた。 最早一刻の猶予も許されない。 誰かに取られてしまったら終わりだ。 彼を好きになれば私にはしたいことができるのだ。 彼女は放課後彼を摑まえ告白した。 彼は承諾し、二人は恋人同士となった。 彼女は彼氏というものをを得た。 それは彼女の生活を少しだけ変えた。 男女のお付き合いというものが彼女は初めてだった。 中学時代は部活でそれどころではなかった。 三年間休みなくあれだけ打ち込んだのに中学最後の試合は二回戦敗退だった。 だからといって彼女は高校でも休みなく練習していたし、バドミントンは嫌いではなかった。 姉はアイドルに全てを捧げているので、彼女の知りうる限り恋人と呼べる存在はいたことがなかったので、相談に適さないと彼女は早々に認定した。 友人も同様だったので、彼女はネットに頼ることにした。 膨大な情報量でどこから手を付けていいかわからなかった。 しょうがないので妹の漫画から知識を得ようとし何冊か読んでみたが、どの漫画でも何故か恋する二人は花火大会に行き、ヒロインは浴衣に身を包み、程度の差こそあるが、二人の恋の進行に欠かせないイベントとなっていた。 彼女は遅きに失したと悔やんだ。 だが、来年の花火大会には間に合うと気づき、一年も経てばベテランの領域に達してるに違いないと前向きにとらえ、地元の余り規模の大きくない花火大会に思いを馳せ、彼とかき氷を食べる姿を想像した。 それは余りに容易かった。 ここ数日彼女はとても多忙で元気で身体に気力が貯まっていくのを感じていた。 二人はラインでやり取りをし、互いの部活休みが一致する日に一緒に出掛けることにした。 彼女は姉の部屋に行き黒いドット柄のワンピースと白い花柄のワンピースを姉のベッドに並べ凝視した結果、白いワンピースはカレーうどんを食べることを想定しデートには向かないと結論付け、黒いワンピースを借りることにした。 姉は「あんた背高くて足長いんだから何でも似合うわよ」と言ってくれた。 彼女は何故かTシャツの袖をめくり右腕の力こぶらしきものを姉に見せ部屋を後にした。 彼女は姿見の前でそれを着てみて何度も何度もくるくると廻り、左手で髪に触れ右手で髪に触れ、両手で前髪を上げてを繰り返した。 これを前日までずっと続け、スクワットをして、ヤクルトと黒酢を飲んでお風呂上がりに肌がぷるぷるになるというドラッグストアで買ったシートマスクをして二十一時には床に就いた。 「母親が再婚することになって、あっちに同い年の女の子がいて、一緒に住むの気まずいから俺祖母ちゃんの家で暮らすって言って」 「それでこんな時期に転校することになったんだ」 「そう、だってやじゃん?同い年の血のつながらない女の子と暮らすって、どう考えてもやじゃん?あっちだってやだろ。初めて会った時すっげー目で俺のこと睨んでたもん」 「引っ越すのやじゃなかった?」 「全然。これから赤の他人と暮らすこと考えたらそっちの方が断然やだった。 祖母ちゃんは祖父ちゃん死んでから一人暮らしだし、あんまり五月蠅くない人だしいいやって」 「すっごい田舎じゃない?」 「こんなもんじゃないの。埼玉だってそんな都会じゃないし」 「そうなの?」 「まあ好きだったけど、川越ってとこなんだけど、まあ何でもあったのかな、でも別にどこに住んでたって日本だったら一緒なんじゃないの?」 「そう?」 後で川越を検索だ。 観光名所、名物、治安、何でも知りたい。 「何かでも、俺が嫌って言うのもあんだけど、多分自分の母親が再婚相手の連れ子に気ぃ使ってるとこ見たくないなって思っちゃったんだよな、それが一番の理由で多分俺母親のこと置き去りにしたんだよな、あの二対一になる空間に」 「石橋君が気にすることじゃないよ」 母親ならもっと配慮すべきだ。 少なくともあと一年半で彼は高校を卒業するのだ。 再婚はそれからでも遅くなかったはずだ。 私は会ったこともない彼の母を想像し憤慨するが、すぐにそれを打ち消す。 彼のお母様だ。 こんな私に好きになれるかもと思わせてくれた、こんな素敵な子を産んでくれた女性だ。 お母さんにはお母さんの事情があるのだ。 人生は思ったよりも短く、あっという間に終わってしまう。 お母さんはしたいことを唯しただけなのだ。 「まあ気にしてもしょうがないんだけど、何か気にするよな。あれだ、もやもやする。ぼんやりとした不安ってこれ?違うか」 「まあ人が死ぬ理由ってそんなもんなんだろうね」 「あー、うん。ごめん。飯食ってるときにする話じゃない、のか?」 「ううん。平気。何でも喋って。石崎君のこと何でも聞きたい」 「別に面白い話なんてないけど」 「私もないよ」 「雪歩ちゃんは結構食うね」 「食べるの好きだね」 「俺も好き、でもカレーで良かったの?」 「カレー食べるためにこのワンピースにしたから、白いと困るでしょ」 「あー、わかる。俺も白いTシャツ買わない。カレー食えないって思うもん。だからいっつも黒いの買う」 「上下真っ黒だもんね」 「カレー零し放題」 「そんなに零さないけどね」 「うん。俺もそんなに零さない」 私達は顔を見合わせ笑う。 何故だろう、凄く楽しい。 ココイチから出ると私は彼の手を取った。 彼は目だけで笑いかける。 私は心臓が跳ねるのを自覚する。 私達は他愛のない何てことのない話をしながら歩いた。 明日には何を話していたか簡単に忘れて仕舞えそうな、この世界に百億通りありそうな取るに足らない話を。 私はこの時間がずっと続けばと思っていた。 この時が終わるのが惜しかった。 私と石崎君はその後もずっと付き合っていた。 毎日ラインでやり取りをし、学校が休みの日には部活が休みなら二人で出かけ一緒にお昼ご飯を食べ、手を繋いで歩いた。 試験前の部活休みになれば放課後も二人で寄り道をして眠ったら忘れてしまう話をした。 そして冬を超え、春が来て、三年生になり、二人にとって初めての夏休みを迎え、花火大会に行き、かき氷を食べた。 私は勿論浴衣を着て、彼はいつも通り黒づくめ、手を繋いで夜空を見つめた。 「暑いの終わったね」 「台風来てるからね」 「もう夏休みおわりかー。やんなっちゃう」 「満喫したじゃん。部活引退したから結構遊べたよ」 「うーん」 「何?何かしたいことあった?」 「何だろ、海?」 「疑問形なの?雪歩ちゃん日焼けしたくないんじゃなかったっけ?」 「したくないよ。でも海とか良くない?イベント感が凄い」 「イベント感て」 「付き合ってる二人と言ったら海じゃない?」 「そうなの?」 「そうなの。来年は海ね」 「海かぁ。プールじゃダメなの?」 「泳ぎたいんじゃないんだよ。砂浜を歩きたいんだよ」 「川でいいじゃん、すぐそこ川あるじゃん」 「川と海は違うでしょ、ねえ、風凄くない?カーテンレールどうにかなっちゃいそう」 「これ昨日窓開けっぱなしにしてたら夜風呂上がって部屋戻ったら吹っ飛んでてさ、付けたんだよ。でさ、一個割れてんの、ここ」 石崎君は立ち上がりカーテンを指さす。 確かにそこだけぽこっと幽霊のように外れている。 「ホントだー」 「なー」 彼は得意そうだ。 そのまあるい赤ちゃんの手のような笑みを私はとても好もしいと思う。 彼が再び隣に腰を下ろしたので私は彼の膝に倒れ込む。 彼が大きな手で私の髪を撫で、私の頬を摘まむ。 私は目を閉じる。 「もうすぐ雪歩ちゃんたんじょうびー」 「あー」 「夕飯ご馳走だから、余計なもん食わない方がいいよね?」 「あー」 「アイスかクレープ食べる?」 「夜ケーキ食べるから甘いものはいい」 「じゃあ次の日でいっか」 「うん。あー、そろそろ帰るね」 「おー」 「起きるのめんどくさい」 「雨降らないうちに帰らないと」 「だねー。でも晴れてない?」 「降るの夜でしょ。でも窓閉めとこっかな。またカーテンレールの死体見たくないし」 「死体って」 「だって風呂上がったらぺたーってなってたんだよ。あれ、付喪神なら死んでたって」 「少なくとも魂は抜けてたよね」 「おー、それだよ、それ」 私達は彼のお祖母ちゃんの家の近くの川べりを並んで歩く。 何度この道を通っただろう。 今なら目をつぶっても彼の家までいける気がする。 「そういや、唐突に思い出したんだけど、俺雪歩ちゃんに好きって言われてない気がする」 「えー」 「嫌、言われてないって。だって雪歩ちゃん俺に彼氏になって下さいって告白してくれたけど、好きとは一言も言われてなくない?」 「多分言ってない」 「そういや、あれ何だったの?俺転校初日にいきなり告白されたインパクト凄すぎてスルーしてきたけど、あれなの?一目惚れだったの?」 「ねえ、今更過ぎない?蒸し返す話?」 「何か聞きたい。雪歩ちゃんの口から聞きたい。誕生日プレゼントそれでいいよ」 「石崎君三月でしょ」 「頑なに石崎君だし」 「それは何回も言ったけど、家のお姉ちゃんの推しが雄馬君で漢字も一緒なの。私にとって雄馬君はあの子なの。それに石崎君ってかっこいいじゃん」 「ゆうちゃんとかでもいいのに」 「石ちゃんじゃだめ?」 「それ名字じゃん。まあ名前はおいおいでいいや。ねえ、何だったの?あの告白」 「うーん、好きになれそうって思ったんだよ」 「ほうほう」 「好きになれそうって、私ほら、背高いでしょ?だから自分より絶対大きい人がいいなっていうのは最初からあって、まあ身長はいいんだけど、好きになれそうな人を探してたんだよ」 「何で?」 「好きになりたかったから」 「何で?」 「何でって、何て言うか、去年の誕生日にさ、急に思ったんだよね。もう私残りの人生でしたいことないなって。それでこの世に何か未練っていうか、してないことないかなって探したとき、ああ、私、人を好きになったことないんだなって思ったんだよね」 「それで何で俺?」 「運命を感じたんだよね、多分。こんな時期に転校生で、明らかに私よりでっかくって、好きになれそうって」 「ほうほう」 「ごめんね。そんなつまんない理由で」 「雪歩ちゃんが謝るとこ何もないと思うけど」 「だってその時点では好きじゃなかったから」 「その時点でってことは今は好きなんだ?」 「うーん」 「えー、うーんなの?」 彼が声で笑い、瞳で笑い、唇で笑う。 私はこれを何度も見て来た。 何度だって見たいと思っているのだ。 そう、この先も何度も、明日には忘れてしまう、ぼろぼろと零れ落ちてしまう話をしながら、いつまでも。 「好きになりたいって思ってるよ」 「それ好きじゃん」 「そうなの?」 「そうだよ。好きになりたいってそれ、好きだよ。俺に言わせたら好きになれたらって思ってる時点でもう雪歩ちゃんは俺のこと好き確定だよ」 「えー」 「えーじゃない。そうなの。雪歩ちゃんはー、俺が好きー」 「何でミュージカル調なの」 「だって、雪歩ちゃん頓珍漢なことばっか言うから。まあしょうがないね。俺が初めて好きになれるかもって思った人なんだもんね、しょうがないよ」 「そっちこそ何でいいって言ったの?」 「俺はあれだよ。転校初日に告白してきてくれたのに運命感じたのと、雪歩ちゃんが背が高くて姿勢が良くてきりっとしてたから。まあ単純に好みのタイプ」 「身体長いばっかりでハンガーみたいじゃない?」 「かっこいいよ、堂々としててさ。でもさ、雪歩ちゃんぶっ飛んでない?したいことなくたっていいじゃん」 「そうかな、まだ十七歳でそれって拙くない?人生に絶望してるってことじゃない?」 「そっかな、俺だってしたいことなんて特にないけど、あ、でも淡路島行きたい。ドラクエのやつ。まあ取りあえずほっといたって明日は来るから、毎日快適に楽しく過ごそうとしたらいいんじゃないの?」 「毎日同じ繰り返しでしょ。これが続くだけならもういいやって思っちゃったんだよね。だから誕生日までにしたいこと見つからなかったら死のうって思ってたんだよ」 「どうやったらそういう発想になるのかわかんないけど、毎日同じわけなくない?朝ご飯は毎日同じかもしんないけど、夜はいつも違うもん食べてんじゃん?それは違う毎日なんじゃないの?あ、でも俺今日朝目玉焼き食べたけど、昨日はスクランブルエッグだった。昨日の夜は豚の生姜焼き食って、一昨日は酢豚だったし、その前は、冷しゃぶ、あれ、豚ばっか食ってない家、ほら、毎日違う一日だよ、一日だって同じ日なんかないって。それと、死ぬことはいつでもできるんじゃないの?あと人間いつかは誰でも絶対に死ぬんだし、わざわざ自分ですることないんじゃないの?勿体ないよ。つーか、生きていようよ、てか、生きていてよ、俺雪歩ちゃんにずっといて欲しいよ。明日から会えなくなるなんてやだよ」 「まだ好きかわかんないっていってるような女だけどそれでいいの?」 「そんなんだったら俺もわかんないよ。でもさ、今こうしてこんな話してても俺超楽しいもん、それで十分じゃない?」 「楽しいの?」 「雪歩ちゃん楽しくない?」 「楽しいんだよね。一緒にいると凄く楽しいの。つまんない話してる自覚あるのに楽しいし、ずっとこの時間が続いて欲しいって思っちゃってる」 「もう答え出てんじゃん。雪歩ちゃんは俺が好き。俺としたいことない?」 「いっぱいある。今腕組みたい」 「おー、組もう、簡単じゃん」 私は彼の左腕にぎゅっとしがみつく。 私のものって知らせるみたいに。 「他には?」 「おんぶして。私、小五でお父さんの身長抜いちゃったから本当に小っちゃいときしかおんぶしてもらってないんだよね」 彼が笑い出す。 おかしくってたまらないみたいに。 もう明日から何も苦しいことなんて起きないみたいに。 彼がしゃがんだので私は彼の背にぴたりと張り付く。 二つの心臓の音を重ねるみたいに。 「どうですか?乗り心地は?」 「いいですよー」 「雪歩ちゃんー、はー、おーれがー好きー」 彼が先程より本格的に歌い出す。 私は彼の首に頬を擦り付ける。 「ゆうーちゃんはー、わーたしーのこーとがー好きー」 ははっと彼が噴き出す。 私は両腕で彼をしっかりと閉じ込める様に抱きしめる。 「夕焼け綺麗」 「もう秋だからね」 「秋好き」 「俺も、食いもん美味いし。サツマイモとか栗のお菓子いっぱい出るし、つーか早く鍋食いたい。去年の冬うち、鍋、シチュー、おでん、カレーのローテーションだったわ」 「雄馬好きなのばっかだからいいじゃない。ちくわぶ好きって言われたときびっくりしたよ。あれ私が知ってる限り雄馬以外好きって言う人いないんだけど」 「マジで?俺すっげー好きなんだけど」 「家のおでんいれないもん」 「えー」 「おでんと言ったら大根とがんもでしょ」 「そういやおでんもう食ってもよくない?」 「いいんじゃないの」 「ちょっと早い?」 「九月半ばになったらもういいと思う」 「お許しが出ましたー」 「おでんを食することを許可する」 「いえっさー」 佐野雪歩は気づいてしまった。 石崎雄馬に恋をしているということに。 いつか雄馬にちゃんと好きだと言おう。 雄馬にもちゃんと言わせよう。 私達は山に行き海に行き、電車に乗りバスに乗り飛行機に乗りジェットコースターにだって乗るだろう。 一度行った場所だって二人ならきっと楽しい。 だって何度行ったって雄馬と一緒ならスーパーだってコンビニだって楽しいのだ。 いつか雄馬の育った川越も行ってみたいし、淡路島にも行きたくなった。 同じ風に吹かれて、同じ星を見て、同じ月を見る、何度も何度も。 したいことできたじゃない。 私は笑い両腕に力を込めた。 雄馬は「はいはい、ちゃんとくっついててね、雪歩ちゃん」と言って笑った。
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