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先輩と先生
「また、明日、ここで」
その約束を三回繰り返している間に、僕らはたくさん話をした。
マシロの好きな食べ物や、好きな場所、行きたいところに、お勧めの小説。 僕がおっちょこちょいなことや、ハンバーガーとチーズたっぷりのピザが好きなこと。
でも、肝心なことは全く話せずじまいだった。
どうして、君は、自由にできないの?
どうして、そんなに縛られているの?
下書きが終わる日に僕は言った。
「連絡先、交換して。また口パクで連絡するの大変だから」
笑って言ってみたけど、マシロはうつむいてしまった。
「…まだ、ヤス兄ぃに話せてないの」
「どうして? モデルを引き受けることの何がいけないの? 友達と連絡を取るのもダメなの?」
僕は痺れを切らした。
「今からヤスユキ先輩の所に行くよね?」
「うん、一緒に帰るから」
「じゃあ、僕からも頼むから、先輩んとこいこう。はいこれ、僕の連絡先」
僕はスケッチブックに自分の連絡先を書いて破いてマシロに渡した。スケッチブック片付けた画材とキャンバスを左手に、マシロの手首を右手で掴んで、僕は3号館を出た。
「ノゾム君、ヤス兄ぃが落ち着いて聞いてくれるとは思えないよ」
「でも、マシロは一人じゃ言えなかったんでしょ」
3号館の階段を下りて、いったん外に出て、本館のロビーホールへ向かう。僕は何だかすごく腹が立った。そこまで縛り付ける彼氏って何なんだ。途中で手首から手を放してマシロの手を握りなおした。
「ダメ、離してノゾム君!」
こんな風に強く女の子の手を握ったのは初めてだった。指が絡んでいるから僕が少し強く握ったら、彼女の手は振りほどこうとしても外れない。小さくて華奢なマシロの手が僕の手の中で抵抗する。
ホールに入った。
人待ち顔でヤスユキ先輩が落ち着かない様子で足を揺らしている。少しクセのある伸びた髪が、痩せた先輩をカッコ良く見せていた。マシロと僕を認めると先輩は立ち上がった。
「お前、何やってるんだ!」
それは僕よりもマシロに向けられた言葉だった。いわゆる恋人繋ぎになっている僕とマシロの手をヤスユキ先輩は一瞥した。
「マシロの手を離せ」
ゆっくりと視線を手許から僕に上げて、低い声で先輩は言った。
「お願いがあってきました。マシロさんに僕の絵のモデルをしてもらいたいんです」
「人の彼女の手を繋いだままでそれはないだろ」
「ノゾム君、離して……!」
「マシロ、君は引き受けてくれたんだろ? 自分で言ってよ」
彼女はうつむいたままだった。
「……いうから、手を離してノゾム君……」
僕はそっとマシロの手を放した。折れそうに細い指、小さな手。でも僕の手に寄り添うように繋がれた手を放すのは残念だった。
「お兄ちゃん、私、ノゾム君の絵のモデルやりたいです……」
「ダメだ」
先輩は一言も考える隙を与えない返事をした。
「ナカノ先輩、どうしてですか? 彼氏だからってなんでそんなに縛るんですか? そんな権利があなたのどこに……!」
「……何も知らないくせに、偉そうな口をきくな!」
次の瞬間、僕の眼鏡は吹っ飛んでいた。頬が痛み、口の中に血の味が広がる。
「ヤス兄ぃ! やめて!」
マシロがヤスユキ先輩を止めに入るべく抱きついた。
ああ、君は、僕じゃなくて彼の元に行くんだね。そうだよね、好きな人なんだもんね。僕は口を拭いながら起き上がった。眼鏡を拾う。もうきっと眼鏡は使い物にならないだろう。
「ノゾム君は悪くないの、私もう元気になったよ? 怖くなかったし、大丈夫だったの。だから、認めて? お願い、ヤス兄ぃ……」
泣きながらマシロが先輩に懇願している。
「帰るぞ、マシロ」
そう言ってヤスユキ先輩が僕を見た目は悲しみを湛えていた。一体何があったんだ。
「……いつか教えてよ。何があったのか」
通り過ぎるマシロに声を掛けたけれど、その肩はしっかりと先輩の手に抱かれていた。
「ノゾム君、ごめん……」
彼女の呟いた声が、枯葉が落ちる音のように残った。
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