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チョコレート
初恋は小学校2年生のとき。
思えばその頃からクラスの子に物を隠されたり、仲間外れにされたり。いじめの足音は確かに近付いてきていた。
だけどまだ幼く人の悪意に鈍感で、どうして自分だけがいじわるされるんだろう?とチクチクと痛む胸をおさえることしかできなかった。
その日は朝から雪が降り続いて、辺りは真っ白。とても美しいバレンタインデーだった。
教室にいるのは少し怖くて寂しくて苦しかったけど、ポケットに忍ばせた2枚の千円札をぎゅっと握ると、不思議と心がぽかぽかと温かくなった。
つい先日、2年間の海外赴任を終えたお父さんが家に帰ってきた。優しいお母さんとのふたり暮らしはもちろん楽しかったけど、やっぱりお父さんがいないのは寂しくて、帰ってくるのをずっとずっと待っていた。そしてバレンタインの今日、大好きなお父さんにチョコレートを買うために、貯めていたお小遣いを握りしめて学校にやってきた。
「どうしたの?」
薄く雪の降り積もった誰もいない公園。ガサガサと毛糸の手袋をはめた手でゴミ箱を漁っていると、頭の上から声が降ってきた。
顔を上げると、そこにいたのは紺色のブレザーの制服を着てグレーのマフラーをぐるぐる巻きにした高校生くらいのお兄さん。
「手袋汚れちゃうよ?何か探し物?」
しゃがんで目線を合わせてくれたお兄さんは鼻の先が赤くなっていてとても寒そうだった。
「…チョコレート」
「チョコレート?…あぁ、今日バレンタインだもんね」
そう言うお兄さんの手には茶色の紙袋が握られていて、きっと学校で女の子にもらったんだろうなって思った。
「もらったチョコレート、失くしちゃったの?」
「…お父さんに、あげるの…」
「お父さん?君、男の子だよね?」
あれ?と顔を見つめてくるお兄さんになんだか恥ずかしくなって、こぼれそうになる涙を隠そうと下を向いた。
授業が終わるとすぐに学校を飛び出して、毎年誕生日のケーキを買ってもらっているケーキ屋さんに向かった。細い裏路地にある、こじんまりとした可愛らしいケーキ屋さん。
そこで1週間前からバレンタイン限定の小さな丸いチョコレートケーキを作っていることを知っていたから。
顔馴染みの店員さんが「お父さん喜んでくれるといいね」と笑って、他のお客さんには内緒だよ?とハートの形をしたいちご味のチョコレートをサービスしてくれた。
お父さんとお母さんと自分の分。3つのチョコレートケーキが入った白い箱にはハッピーバレンタインと英語で書かれた赤いシールが貼られていて、早くお父さんに見せたいと心が弾んだ。
だけどケーキが崩れたら嫌だから。その箱を大事に抱えてお店を出た、すぐあとのことだった。
ドンっと背中を押されて、膝が地面を擦った。目の前に飛んだ白い箱をひとりの男の子が乱暴に拾って、そのまま駆け出していく。そのあとをバタバタといくつかの足音が追った。
クラスメイトだって、すぐに分かった。
「まって、かえして…」
必死に叫んだつもりだったのに、喉から出たのは弱々しいか細い声で。誰にも届くことなく大きな笑い声に掻き消されていく。
「こいつ男のくせにバレンタインのチョコ買ってる!」
「女かよ!」
「きも!」
容赦なく降りかかるトゲトゲとした言葉に目をつぶって、耳を塞いで。気付いたときには男の子たちも白いケーキの箱も目の前から消えてしまっていた。
前に一度、お母さんに買ってもらったばかりの筆箱を学校のゴミ箱に捨てられてしまったことがあった。きっと学校には戻らないだろうから、もしかしたらって。近くの公園のゴミ箱の中を探そうと思った。
ぼたぽたとこぼれる涙が白い雪に吸い込まれていく。
泣いたりしたら「こいつすぐ泣く」「うざい」「女かよ」ってまた言われてしまうのに。
ゴシゴシとびちゃびちゃになってしまった手袋で目を拭うと、「ねぇ知ってる?」とお兄さんが優しくその手を掴んだ。
「海の向こうの国ではさ、バレンタインって男の人が好きな女の人にプレゼントを贈るんだって。赤いバラとか、何か愛を込めたものを」
「男の人が…?」
「そうだよ。日本では女の人があげるのが当たり前みたいになっているけど」
「そうなの…?」
「うん。…だからまぁ、何が言いたいかって言うと。男でも女でも、大好きな人がいるなら、バレンタインにはその人にチョコレートを贈っていいってことだよ」
ふわりと笑ったお兄さんは今まで見た誰よりもかっこよくて、チクチクと痛んでばかりの胸がドキドキと高鳴るのを感じた。
「あ、」とお兄さんの目が何かを捉えた。お兄さんの視線の先にあったのは、ベンチの下に投げ捨てられてぺしゃっとつぶれた白い箱。お兄さんはその箱を拾うと、そっと中を覗いて分かりやすく顔を顰めた。
「これ、近くのケーキ屋さんの?」
うんと頷くと、お兄さんはもう一度目の前にしゃがんで、おもむろに冷たく濡れた手袋を外してくれた。
「こっちのほうがあったかいよ」
その言葉とともに大きな手で包まれた右手。
「こっちはポッケに入れときな」と、左手は着ていた上着のポケットの中に入れられる。
するとお兄さんは「じゃあ行こうか」と、手を繋いだままゆっくりと歩き出した。お兄さんの右手にはぺしゃんとつぶれた白い箱がぶら下がっていて、綺麗な白は茶色い足跡で汚されていた。
あのケーキ屋さんの前に着くと、お兄さんは「ちょっと待ってて」と手を離してお店の中に入って行った。
持っててねと渡された汚れた箱をぼんやり見つめていると、ハッピーバレンタインの赤いシールが貼られた綺麗な白い箱を持ったお兄さんが「お待たせ」と戻ってきた。
そしてまた、目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「チョコレートケーキ、俺のと交換してくれない?」
「…え…?」
「俺も今日、ここのチョコレートケーキ3つ買うつもりだったんだ。だけど、ほら。さっき見たら…、君のケーキの方が美味しそうだったから」
くしゃっと目を細めて、なんだか照れくさそうに言葉を紡ぐお兄さん。きっと自分でもよく分かんない理由だなぁって思っていたのかもしれない。
半ば強引に箱を交換して、お兄さんは「ありがと」と笑った。
「…君のお父さんは幸せ者だね」
「しあわせ?」
「うん。君みたいな優しい子がいてさ、とっても幸せだと思うよ」
自分のどこが優しいのか、そのときは、そして今もよく分からない。だけどこの人がそう言うなら、いじわるなんてしない、優しい人でありたいと思った。
「家は近いの?」
「あ、はい…」
「そう。…じゃあ、もう失くさないように。気を付けて帰ってね」
そう言ってぽんぽんと髪を撫でてくれたお兄さんは、あれから10年以上のときが経った今、目の前で「うまっ!」と大きな口を開けてチョコレートケーキを食べている。
大好きな恋人のためだけに作った、甘い甘いチョコレートケーキ。
「葵、どんどん作るの上手になってる」
チョコレートケーキに乗せたいちご味のハート形のチョコをパリッとかじって秀くんはふわふわと髪を撫でてくれる。あのときと同じ優しい笑顔で。だけどあのときよりも甘く溶けた笑顔で。
「…忘れちゃったかぁ」
「…ん?何が?」
「ううん。なんでもなーい」
こぼれた言葉の意味を、秀くんが知ることはきっとない。
あの日出会っていたことを、秀くんは覚えていない。
最初はちょっと寂しかったけど、今はそれでいいと思える。
高校生になって、あのブックカフェで秀くんを見つけた。
ずっとずっと探していた、初恋の人。
いてもたってもいられなくて、すぐにバイトの面接に行ったんだっけ。
あの日恋に落ちていたことも、初恋を実らせてくれたことも、秀くんは何も知らない。
だけどそれでいい。これは自分だけの大切な宝物だから、心の奥の宝箱の中にしまっておこうと思う。
来年も、その次の年も、10年後も、50年後も。ずっとずっと、バレンタインには秀くんに甘いチョコレートを贈れますように。ただそれだけを願って。
チョコレート
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