さざ波は深くかみなりのように

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<interlude>  よく晴れた午前十時。  在原光漣(ありはらこうれん)は、新宿の雑居ビルの五階の、ベランダに出ていた。  昨夜は、埜中サリに醜態を見せてしまった。今後は、飲酒年齢になっても、アルコールには気をつけようと人知れず誓う。  客の予約は一時間後。三十代と思しき常連で、少し早い昼食を一緒に取ることになっている。  隣の部屋のベランダから、煙草の煙が流れてきた。 「失礼ー」  そう言ってきたのは、光漣の母親のような歳の女だった。何度かこのビルの廊下ですれ違ったり、エレベーターで雑談したこともある、顔見知りの。 「お兄ちゃんたちの待機部屋、結構賑やかだねえ」 「ああ、うるさくしてすんません」 「いやいや、嫌味じゃないのよ。若くていいなあって。こっちはおばさんばっかりだけど、スマホ見てばっかであんま口きかないから」 「こっちも似たようなもんっすよ。たまに話が合えばばか笑いするだけで」 「お兄ちゃんは男に体売ってるんだっけ?」 「いや、おれはおしゃべりするだけ」 「それでお金になる時期ってあるのよねー。あたしは十代の時、ぜんぜん大人しかったけど」  はあ、と相槌を打つ。 「まあ、どっぷりになる前に足洗ったほうがいいよ」 「実は最近、ちょっとそんな気分になってきてて」 「なに、女? お兄ちゃん、ノンケっぽいもんね」  なんで分かるんだ、と光漣は少し憮然とした表情になる。 「やってることは別に変わらんのに、やけに後ろめたくなってきたんすよね。おれとしては、ちゃんと引いた線を守ってやってきたつもりなのに」 「じゃあ、本音にさせてくれる女なんだ。面白くないねえ」  そう言いながら、女はけたけたと笑う。  そろそろ支度をするか、と光漣が切り上げようとしたとき、入り口のドアが開いて、キャストが一人帰ってきた。  自称大学生の痩せた青年で、お互いの本名や素性を話すほどの仲ではないが、光漣とは以前からそれなりに気が合っている。  光漣は女に会釈して、ベランダから部屋に戻った。クーラーのおかげで、にじんでいた汗がすっと引く。 「おー、お疲れ」 「ただいまー。ってのも変だけど、ついこれ言っちゃうな。あー、苦手な客だったから、しんどかった」 「なんだ? 変態か?」  半眼になる光漣に、青年は苦笑した。 「変態ってほどじゃないよ。ただ、呼び出しがいつも急だし、愚痴が長いんだよ。ノンケの振りして彼女作ってんだけど、やっぱキツいらしくて」  青年は冷蔵庫から炭酸を取り出し、グラスに注いだ。 「それで男買ってりゃ世話ねーな」 「彼女とは、付き合ったはじめのころは一応やることやってたけど、もうずっとレスなんだって。基本、女とは無理なんだな。でも彼女は、ちょいちょいそういうことしたい雰囲気出してくるんだってさ。そりゃそうだよね、健康な女ならフツーはさ」 「こういう場合の健康って、いまいち意味不明だけどなー」  この手の話はそう珍しいものではなかったが、光漣にはいまだに理解できなかった。それでなぜ、異性の恋人を持とうと思うのか。  世間体ということなら、世の中にも問題があるのだろう。しかし、人一人を騙して飼い殺しにするような真似をしてなんになるのだろうと思うと、納得はいかない。 「それでさー、どうも昨夜、彼女が別の男と会ってたみたいなんだよね。浮気ってほどじゃないみたいだけど。形だけの彼女でも、やっぱそいつ面白くないらしくて、今すぐ来いって呼び出されたの。ハケ口もいいとこだよ。まあ、仕事だからいいんだけど」  ますます納得がいかない。  バンドが成長期を迎えている今、少しでも大きい会場(はこ)を抑えるために金勘定に神経を割き続けている光漣には、そんなことで男を買う金を出すのは、無駄な浪費にしか見えない。  だったら最初から、男とつき合えばいいではないか。 「まあ、コンプレックスとかもあったみたいだけど。大人しくていい人なんだけど、あんまイケてるってタイプじゃないからね。彼女が昨夜会ってた相手ってのが、赤い髪のバンドマンなんだってさ。あ、君みたいな頭かもね。わざわざ池袋のライブハウスまで彼女つけてって、そんな彼女の姿見たもんだから、余計にたまらない気持ちになったみたい。つまんないことするもんじゃないねえ」  青年は、笑っていたが。  自分も炭酸を入れようと思った光漣の手が、ぴたりと止まった。 「……なに?」 <interlude 終>
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