さざ波は深くかみなりのように

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「慰謝料が欲しい」  一瞬、なにを言われているのか分からなかった。  これ以上ないくらい簡潔な言葉で、小さいころから理系だったっていう、譲くんらしいなと思う。  でも、その意味を私の頭が分解できない。  彼の部屋で、譲君がつっぱった手に胸元を押し返されながら、私は力なく聞き返した。 「それは……私が、譲くんに、払うの?」 「そう」 「どうして……?」  譲くんがため息をつく。 「いきなり連絡してきて、朝から会いたいって言いだしたのはいいよ。でも、会うなり妙にべたべたしてくるし、肌の露出は多いし。そんな風に露骨に欲望をあらわにされると、不快な男だっているんだ」  そう言われてみれば、心なしか譲くんの顔色は、いつもより精気がないように見えた。  でも、はしたない女のような言われようは、心外ではある。別に、露骨に迫ったりしたわけじゃないのに。 「そんなつもりじゃ。ただ」 「サリ、気づいてないかもしれないけど、そういうときが結構あるよ。昨日もそう。そんなにそういうことがしたいなら――」  違う、と言おうとして、言葉に詰まる。そう、かもしれないから。  けれど。 「――それなら、別の男がいるじゃないか。昨夜みたいに」  その言葉で、ほかのすべてが吹き飛んでしまった。 「……見てたの……? どうして……」 「君がライブハウスの名前を教えてくれたから、少し興味が出てね。まさか家まで行くとは思わなかった」  昨日、譲くんに見られてたなんて。全然気づかなかった。 「ご、ごめん。あれは、放っておけなくて……でもその後、部屋からすぐ出たから」 「それも見てたから、知ってる」  今日の譲くんは、なにかおかしいとは思った。今までとは態度が明らかに違うと。  その原因が思い当たると、今さらに、罪悪感がどんどん膨らんできた。 「僕に見られていなければいいと思ったの?」  見られていなければいいと思っていた――部分はある。否定できない。 「ほかの男に湧いた欲求を、僕で満たそうなんて、冗談じゃないよ。今まで、僕にそんな気がないのに妙に接触を求めてたのも、僕には苦痛だった。資本主義の世の中だからね、その分はお金で埋め合わせてくれればいいかなと思う」  そこまで言われれば、さすがに悟る。 「譲くん、私と別れようとしてる……?」 「そうしてくれるなら、お互いのためだから、慰謝料なんていらない。……出て行ってくれる? ここにある君の私物は、宅配便か何かで送るよ」  今までに見たことがないほど冷たい目。  ここで、泣きながら頭を下げて謝ったら、考え直してくれるだろうか、と考える。  もしかしたらそうかもしれない。でも、その先の私たちに、いいことが待っているようには、まったく思えない。  私は、私のせいで譲くんを傷つけて、つらい思いをさせたことを謝った。  彼女として最後に見せる顔が、謝りながらの泣き顔というのはいやだったので、涙だけは我慢した。  そうして、手に持てるだけの目についた私物だけは持って、譲くんの部屋を出た。  今日この部屋を出るときは、もっと、落ち着いた気持で、満たされながらドアを後にするはずだった。  その落差が切なくて、お昼前の強い日差しに対してあまりにも自分の足元が頼りなくて、何度かアスファルトの上で転びそうになった。  今日の夜は、ヒマラヤの雫でのバイトがない。  なにをして、どう過ごそう。  考えはまとまりそうになかった。 ■
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