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大学二年の、二ヶ月近くもある夏休みは、ありがたいことに、持て余すことがなさそうだった。
課題もアルバイトの予定もたっぷりいただいて、気が付けばあっという間に八月が終わろうとしている。
私の髪はロングの茶髪で、きれいだと褒められることもあったけど、忙しさにかまけていないでさすがにそろそろ美容院へ行かないといけないな、というくらいの髪質になってきていた。
吉祥寺のカレー専門店「ヒマラヤの雫」でのアルバイトは、夜の九時に終わる。
この日の私の終業まで、あと十分というところ。
ホールと厨房の間を行き来しながら、
「明日、絶対美容院行こうっ……」
とつぶやいてから、予約を入れ忘れていたことに気づく。私は本当にこういうことが多い。
一応常連ではあるサロンなので、当日でもなんとかなるかもしれないけど。
「ごちそうさまー」
お客さんの声に、慌ててレジへ向かう。清算を済ませて、ホールへ向き直ったとき。
入り口のガラス戸を出たお客さんが、私を手招きしているのが、暗がりの中に見えた。
あれ、お釣りでも間違えたかな、と思いながら
「はいー?」
と外へ出る。
そのお客さんはビールを二杯ほど空けただけで顔が真っ赤になっており、立派な酔客だった。
五十代くらいのおじさんで、口元をにやにやと緩めている。
「君さあ」
「はい」
「名前なんて言うの。次シフト入るのいつ?」
ぴし、と体が固まった。
なんと答えていいのか、正解が見えない。まともに答えるのはとても嫌だなあと思いつつ、変に勘ぐるのも失礼かもしれない、とも思う。
この応対がまずいせいでお店の悪評があることないことネットででも書かれたら……なんてことまで考えて、余計に声が出なくなってしまう。
「あの、えーと……ですね」
「あ、背中にクモついてるよ」
「えっ!?」
反射的に首を巡らせてから、なんで私の背中がこの人に見えるんだ、と気づく。
その時、左腰のあたりを撫で上げられるような不快感があった。
まさか触られた? と思いながら正面を見ると、おじさんは、右手に四角い機械を掲げて笑っていた。
それがなんなのかを理解して、血の気が引く思いがした。
――私のスマホ!
このお店では、私物のスマートフォンが手元にあったほうがなにかと便利だろうということで、携帯したまま働いて構わないといわれている。今までも、電卓機能やちょっとした食材の調べものに使ったりしていた。
「か、返してくださいっ!」
二三歩踏み出す私をからかうように、おじさんはスマホを持った手を上に伸ばす。
「君、動きがくるくるして、猫みたいでかわいいねえ。身長なんセンチ?」
「百六十以上あります、全然猫じゃありません! いいから、返してっ……」
高い位置にあるスマホを取り返そうとつま先立ちで跳ねていたら、思いのほか、おじさんに接近していることに気づいた。
おまけにバランスを崩して、前のめりに倒れそうになる。
すぐ目の前に、だらしなく開いたシャツの襟がある。お酒の匂い。にやついた目――
「おっと」
その声は、おじさんのものではなかった。私の肩を支えた手も。どちらも、私のすぐ後ろから聞こえてきた。
「お客さん、どうされました?」
若々しいけど少しハスキーなその声は、私と同じアルバイトの、在原光漣のものだった。
すらりとした背の高いシルエット。目元を隠すくらい伸ばした赤い髪は、今は後ろでまとめられてバンダナで押さえられている。
「お客さん、そのそのスマホ、うちの職員のものですよね? 無理やり奪い取ったんですか?」
おじさんは、自分よりも縦に長く横に細い男性の登場に、急に落ち着きを失った。
「な、なんだお前。奪い取った? これはちょっと借りただけで」
「貸したの?」
光漣が私に訊いてきたので、ぶんぶんと首を横に振る。
「じゃ、通報するか」
光漣は自分のスマホを取り出した。
「ま、待て! ちょっとふざけただけだろ、最近のバイトはそういう接客ができねえよな! まともに客あしらいしてみせろよ!」
「そういうあなたは、まともに飲食して、まともないお客でいてみせてくださいよ。そうしたら、おいしいカレーをご馳走します。今日はありがとうございました。それでは」
光漣は私のスマホをぱしっとおじさんから取り返すと、私を促して店内に戻った。
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