さざ波は深くかみなりのように

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 お店の中は、いつも通りのスパイスの香りと、店長の心配そうな視線がありがたくて、私はほっと息をつく。  光漣が鋭く吊り上がった眼で私を見やり――睨んでいるつもりはないのは分かるんだけど、ちょっと怖い――、 「埜中(のなか)さん、悪かった、です。遅れた、ました」 「ううん、ありがと。私、元気そうとか気が強そうとかよく言われるんだけど、ああいうのはどうも苦手で」 「明るくてまじめそうな人をこそ狙って、ちょっかいだしてくるあほなやつっているんだよ、ですよ。埜中さんに原因があるわけじゃねえ、ないです、よ」 「……なんで敬語がそんなにつっかえるんだろう」 「埜中さんはあまり年上に見えないんで、つい敬語が不自然になんだよ……なるんですよ。ちゃんと敬意は持ってるんだけどな、ですけどもな」 「……もういいよ、平常語(へいじょうご)で。そりゃ、在原(ありはら)くんはでっかいけど」 「下の名前で呼んでくれって。小学校の時、和歌野郎ってからかわれたから、今でも自分の苗字苦手なんだ」  前にもそう言われて以来、普段本人を思い浮かべるときは光漣と呼んでいるのだけど、やはり口に出して言うとなんとなくファーストネームは気恥ずかしい。  光漣は、キッチンの備品から保菌シートを出すと、私のスマホをきゅっきゅと拭いてくれた。 「はい。これで汚らしいものはとれたろ」 「汚らしいって。……ありがと、光漣くん」 「呼び捨てで頼む。コウレンクンてレンコンみたいだから」  なんだかんだいって、単にこいつは、コウレンという響きが気に入っているだけではないかと思えるけれど。まあ、いいか。  私はスマホを受け取りながら、 「私もサリでいいよ」  光漣は、普段ほとんど変えない表情を、珍しくぴくりと怪訝そうな形に造形した。 「え。女子の下の名前呼びは、いいんかな。しかも呼び捨てで。おれのほうが年下だし」 「いいよ。私、サリって響き気に入ってるんだ」  人のことは言えないのだ。  私はくるりと身をひるがえして、レジを通り過ぎ、かなり空いてきたホールへ戻る。  すると後ろから、くっくっと笑い声が聞こえた。  振り返ると、光漣が口元を手で隠していた。 「……今、笑うところあった?」 「いや、悪い。一個だけ、あのおっさんの言うこと当たってんなと思って」 「なにが」 「動きが猫みてえ」 「……なんで、せっかく助けてくれたのに、そんなことを思い出させるのだ」  光漣が、人相の悪い笑顔を浮かべたまま、私を追い越してホールへ向かった。 「いいじゃん。もう言われちまったことなら、味方に上書きされたほうが」  上書き。 「なに、そのシステムは」  ともあれ、味方と明言されたのは気分がよかった。  本当に、今日はかなり光漣には助けられたな。彼がいなければ、もっと嫌な目に遭っていたかもしれない。  ぶっきらぼうだけど結構気のつくところもあるし、いいやつではある。たまに生意気だけど。  それに妙に動作に色気があるというか、女好きするところがあって、光漣目当ての女性客もこのお店には結構くる。そのため、売り上げへの貢献も大きい。  客あしらいも堂々としているので、店長もかなり助かっていると思う。  不覚ながら、たまに私だって光漣の所作にドキッとしてしまうことがある。  いけないいけない。  てきぱきと仕事を終わらせて、早く帰ろう。  今日は、彼の家に行くんだから。 ■
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