さざ波は深くかみなりのように

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「それでけんかしたの? ばかじゃねえの」  冷めた視線の光漣にはっきり言われて、私は、洗っていたグラスを取り落としそうになった。 「……光漣、私に敬意はあるって言ってなかったっけ」 「あるよ、ありますとも、もちろん。でももっとほかに言い方あったろーに」  ディナータイムの始まりを前に、ほぼお店の準備はできている。「ヒマラヤの雫」は結構な人気店で、平日でも開店直後に満席になることが少なくない。ネパール人の店長と、日本人のオーナーの、仕掛け方・料理・サービスがうまく噛み合っているのだと思う。  なお、美容院は朝一番で受けつけてくれた。髪のコンディションがいいと気分も上向くものだけど、今日ばかりは、まだゆうべのダメージが残っている。  私は、しつこい汚れが残っていたグラスの洗浄を仕上げて、食器のチェックを進めていく。 「だって、前から思ってたんだもん。確かに大事にされてるなとは思うんだけど、なんていうのかなあ、『彼女』の扱いではないんじゃないのかって思うことが割とあって」 「具体的にはなにされたんだよ? ……言える範囲で」  おお、この際聞いてもらおうじゃないの、と思いはしたのだけど。  言える範囲で言えること。はて。  具体的にといわれると、なんだか譲くんとの二人の秘密を、勝手に漏洩させるようで、気が咎める。  それに、なにかをされたというより、いまいちなにもないから不安になるのであって。 「……それとも、言えるようなことが、逆になにもないから不安とか?」  エスパーかこいつは。 「もともと、穏やかな人なんだもん」  これは、答えてしまったようなものだろうか。 「ふうん。どうやって出会ったんだよ」 「私が高三の春、四月の終わりくらいだったかな。予備校行ったら、前の年に合格者だった彼――譲くんていうんだけど――が、先生にお礼言いに来てて。そんなことめったにあるものじゃないらしいから、予備校の人たちも驚いてたの」 「確かにあんまり聞かねーな。学校ならともかく、予備校の講師に礼って。律儀なことで」 「そのとき、通りがかった私がその年の受験生だって知ったら、『応援するよ』って言われて。で、志望校が譲くんの受かった大学と同じだって分かって、受験対策をいろいろアドバイスしてもらったんだ。それが最初」  当時の私が、男心などというものにまったく詳しくなかったことを差し引いても、あのときの譲くんには下心のようなものはなかったと思う。  夏期講習の間にも会うようになって、告白されたのは、九月の頭だった。二学期が始まってすぐだったので、よく覚えている。彼のほうから気持ちを告げてくれた。 「……高三の二学期に色恋沙汰か……」  こころなしか、光漣の目が冷たい。 「そ、そのときから、控えめというか、勉強優先のつき合い方してたんだよ! クリスマスくらいかな、ちょっと恋人らしいことしたのは。年末もお正月も勉強してたもんね!」  クリスマスには初めてのキスをしたけど――これもわりとゆっくり目なペースだと思う――、二人で会える日も、必ず互いに参考書を持参していた。  我ながら、自制心にあふれた交際だったと思う。  第一志望の大学に合格してから、キスの先へ進んだ。  でも、一年生の夏休み頃から、今のようなひなびた感じに落ち着いている。  ……などとは、光漣に言う必要はないだろう。うん。全然ない。 「光漣こそ、今、大学一年の夏休みなんだから。彼女と出かけたりしないの?」  光漣の大学は、私のところと同じくらいの偏差値で、課題はそれなりに忙しいとは聞いている。でも、まったくほかの時間が作れないというほどではないはずだ。 「今、それどころじゃねえんだよ。バイトで」 「え。ここのシフト、私より少ないよね。かけもち?」 「まあね」 「どんなの?」  それまで軽い口調を続けていた光漣が、ふっと黙った。  まるで言葉に詰まるように。この、ずけずけとした後輩が。 「光漣?」  光漣は、体を横に向け、私の側に出した右肩を少し下げた。そして首をわずかに傾け、うかがうような目で、 「内緒」 「……光漣て、たまにポーズっぽいしぐさになるけど、それがもしかしてほかのバイトと関係ある?」  流し目のように向けられた視線に、不覚にもどきっとさせられた。この男のそれは、妙に板についているというか、効果を分かってやっている節がある。 「いや。これは、どっちかっていうとバンドの影響かな」  準備の仕上げに指差し確認しようとしていた私の声が、ひっくり返った。 「バンド? 光漣が?」 「そ。意外か? ステージ上での見せ方みたいなのは、やっぱり意識するからなあ」  いや、派手な髪の色も、動作の節目節目がやけに絵になるのも、この男がステージで歌など歌うと聞けば、意外どころか大変納得がいく。 「えー、凄いじゃん。楽器やってんの?」 「ギターボーカルだぜ、おれ」 「なあっ!? 花形じゃん!」 「ライブやるにも金かかるからな。それで、貧乏暇なしなんだよ」  心なしか得意げな笑顔を、斜め上四十五度から向けられて、こいつもしかして結構人気あるのでは……などと思わされてしまった。 「でも。おれは、サリのほうが意外だな」 「私? なにが?」 「そんな、おとなしいばっかりの男とつき合ってるっていうのが。つまんなくねえの?」 ■
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