さざ波は深くかみなりのように

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 翌日の夕方。  いつもパンツスタイルの私が、この日は珍しく、ペパーミントグリーンのワンピースを着ていた。 「ヒマラヤの雫」のロッカーには、緊急時に備えて働きやすい服を入れさせてもらっているのだけど、今日は久々にそれを活用することになりそうだ。  お店に着いて、更衣室に入ろうとしたところ。 「サリちゃーん。ちょっと、お使い頼まれてくれないかなあ?」  日本に来て十数年、日本語がペラペラの店長が、ネパール国旗を背景に、レジの私に肩を振り振りそう言ってきた。 「なんですか?」  いつもお世話になっている店長の頼みとあれば、大概のことは断るつもりはない。 「光漣のことなんだけどお」  断りたくなった。 「う……実は、今、光漣とはちょっと……ケンカ中で」 「あれえ。そういえば昨日、ギスギスしてたねえ」  だって、人の彼氏をつまんないやつ呼ばわりするから。怒らないほうがおかしい。 「それがー、光漣たら、昨日ここに財布忘れてってえ」 「うわあ」 「今日きたときに渡すはずだったんだけど、急遽今日休むって連絡がきたのよう。調子でも悪いのかなあ。そしたら、なおさらお財布ないとでしょお」 「それは確かに……」 「今日はたぶん暇だし、忙しい時間になる前に戻ってきてくれればいいから、届けてあげて。家知ってるよねえ?」 「いえ、最寄り駅は知ってますし、住所もなにかの拍子に聞いた気がしますけど、正確には覚えてないんですが……」 「なんの拍子でも、教えたものは教えたんだから、本人も構わないでしょお。はい、これ住所書いたメモ。これ交通費。これお財布ね。よろしくう」  光漣の家は、お店から近かった。  電車で二駅、そこから徒歩で十分ほど。  気まずい気持ちはあったものの、まあそこまで引きずるほどのものでもないかな……と思い、仲直りするいいきっかけかもしれないので、堂々と目的のアパートへ向かう。  一人暮らしだというその部屋は、にぎやかな表通りからは少し離れたところにあった。  道端に置かれたアロエの鉢や、くたびれたスレートぶきの屋根を傍らに通り過ぎていくと、周囲から浮いてこぎれいな建物が見えた。  あれだ。  もし本当に具合が悪いのなら、お見舞いになるようなものを持ってくるべきだったのかもしれないけれど。異性のアルバイトの同僚になんてなにを持っていけばいいのか、なにを持っていくべきではないのか、判断がつかないので、適当にお菓子を買って持ってきた。  チャイムを押したらまずなんと言おう、などと考えながらアパートの前までくると、二階に上がる階段の上から、ドアを施錠する音が聞こえた。  続いてカンカンと足音がして、誰かが下りてくる。  見上げると、そこには、果たして光漣がいた。 「ああ、光漣。店長から連絡行った? これ、お財布。感謝してもら……」  いつも通りの軽口を叩こうとして、そこで私の言葉は止まった。  光漣が、私の顔を見て、階段の半ばで硬直し、絶句している。  それからかろうじて唇を開き、 「なんで……」  とつぶやいた。 「な、なんでって、ほら、お財布だってば。ほらっ!」  私はバッグから黒い長財布を取り出し、腕を斜め上に突き出す。そのまま階段を二三段上がった。  光漣は、そろそろとそれを受け取る。  後ろ向きのまま、私は階段をとんとんと下りた。それで改めて光漣の全身が目に入る。  いつもお店に来る時のカジュアルな恰好とは違う、とはいけ決めすぎているのでもない、「ちょっとしたよそ行き」の服装だった。黒いサマ―ニットに、発色を抑えた赤いパンツ。 「金くらい少しはあるし、……また次だっていいって、店長に……なのに、サリが、くるかよ」 「なに、私がいたらいけない? 具合悪いのかなって、心配したのに」  私は、コンビニの袋も光漣の手に押しつけた。 「……アルフォートじゃねえか……それに、ミルファス……ブルボンの回し者かよ……夏場にチョコレートばっかりだし……」 「そ、そんなすぐに溶けないでしょ、今日涼しいし! それにしても、病気やケガじゃないみたいだね」 「……ああ。いきなり休んだりして、悪い。急用、で」 「いいよ、今日そんなに混まないだろうし。それくらいは分かった上ででしょ」 「……ああ」  どうも様子がおかしいな、と思っていたら、光漣が両手で、自分の顔を覆った。 「光漣?」 「まいった……完全に頭切り替えて、腹決めて家出たのに、いきなり出合い頭にな……日常じゃねえか……おれの」 「日常?」 「いや。違う。違うな。いつもと違うもんがある。……珍しい恰好、してんじゃん」  そう言われて、私はワンピースの裾を小さくつまんだ。 「いいでしょ、たまにはね」 「なに。今日、彼氏んとこ行くの?」 「ううん。これは、洗濯のローテーションで今日これしかなかったから」 「色気のねえ話だ」 「出せばあるわい」  少しずつ、いつもの調子に戻ってきた。でもやっぱり、光漣の目は曇り空のように元気がない。 「光漣、出かけるところだったんでしょう? 私、お店戻るね」 「……急いでるのか?」 「店長には、忙しくなる前に戻ればいいって言われてるけど、早い方がいいでしょ」 「そうだよな。ありがとう」 「ふっ。どういたしまして」 「財布のことじゃねえよ」 「え? じゃあなに?」  光漣の指が、私のワンピースの裾を指した。 「かわいいもの見せてもらったから」  今度は、さっきの光漣よろしく、私が絶句する番だった。 「光漣……やっぱりどっか悪いの……?」 「本気の心配声でなに言いやがる。ただ、思ったこと言っただけだ。……これから、あまり楽しくねえところに行くんだよ」  光漣は(ようやく)階段を降り切ると、駅とは逆のほうへ歩いて行った。  私もお店に戻ろう。そう思ってきびすを返しかけた時、ひどく後ろ髪を引かれる思いがした。  どこに行くんだろう。  そのくらいのことを訊ける親しさは、あるはずだと思った。  でも、できなかった。  いつも通りの大きな、でも今日はなぜか悲しそうで、寂しそうな後ろ姿が、人波に消えていった。 ■■■
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