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次の日、「ヒマラヤの雫」で会った光漣は、すっかりいつも通りだった。
「昨日はすみませんでした、店長。サリも、ありがとな」
「いいけどお、大丈夫ね? 具合悪いのかしらあ?」
「いえ、もうすっかり平気です」
確かに普段通りに、光漣はてきぱきと開店準備を進めていく。
十五分ほど余裕を持って準備を終えるのも、これまでと変わらなかった。
この開店前の時間で、私たちはこれからお客さんを迎えるべく気持ちを切り替える。
……なんだけど、おとといはケンカしてしまったし、昨日は光漣の珍しい顔を見てしまったので、今日はなんだか二人でいると極まりが悪かった。
「サリ」
「な、なに?」
つい声が上ずった。
「おれのライブ見にこねえ?」
え、と私の背筋が伸びる。
「行く行く! いつやるの、どこでやんの? チケットとかあるんでしょ? ちゃんと買うよ!」
「……誘っといて買わすわけねえだろ。ん」
光漣が差し出したのは、黒字に赤いロゴと四人の男の子の写真があしらわれている、横長の紙だった。
「悪いな、仕事中のこんな時間に、こんな話」
私はぶんぶんと首を振った。
「ありがとう! 私、こういうの行くの結構憧れてたんだよね。あ、来週じゃん! これ、服装とかってなにか気をつけることある?」
「ねえよドレスコードなんて。フツーでいい、フツーで」
「それが一番難しいじゃない……!」
そんなことを言っている間に、開店時間五分前になった。
いけないいけない、浮かれるのは仕事の後だ。
彼氏以外の男の子に誘われて、こんなにうれしいなんてまずいんだろうな。
そう考えて、急激に譲くんのことが気になりだした。
……あれから、仲直りできずにいる。
■
私は週末、譲くんの家に向かった。
午前十一時、言っておいた時間ぴったり。
アパートのチャイムを鳴らす。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
かすかに声が緊張しているのは、お互い様だった。でも、いつも通りの靴の脱ぎ方で、いつも通りの歩き方で、いつもの譲くんの部屋に入っていく。
「譲くん、今日、お昼どうする?」
「僕が適当に作るよ」
「え、私作るよ。レポートやってるんでしょ? ちょっといたら、すぐ帰るから」
譲くんが、悪意のない笑い声で、
「そんな、それじゃなにしにきたの」
と言った。なにげない調子で、屈託なく。
それなのにどうしてか、私は、ざらりとした嫌な感触をお腹の中に覚えた。
ゆっくりしていきなよ、って言われたんだって分かってるのに。
なにしにきたの。そう、今日の私は、ただ一個だけのことを伝えにきたのだ。
「譲くん、私、来週知り合いのライブに行くの」
「へえ。どこ?」
「池袋」
ライブハウスの名前を言ったら、すごく攻撃的な名前だね、と譲くんが小さくのけぞった。
「そんな知り合いがいるなんて知らなかったな」
「アルバイト先の男の子なんだけど」
性別は意図的にはっきりと言うことにした。
「うん。いいんじゃないの。行ってらっしゃい」
「うん」
きっとだめだとは言わないと思っていた。
でもどことなく、――勝手だなと我ながら思うんだけど――気にかける気配もないのが、引っかかってしまう。
譲くんの気持ちを確かめるようなことがしたかったわけじゃない。
でも、少し深いプールの底に足を延ばしたら、まったく足先がつかなかったような、背筋が冷えるような頼りなさを感じた。
いや、これは譲くんの優しさなんだから。束縛の強い男の人に、何度も困らされている女子は周りにたくさんいる。譲くんはそうじゃないってことだ。
……それは分かっているんだけど。
どうしてか、急激に、譲くんに触れたくなった。
「譲くん」
私は彼の後ろに回り込んで、胸に腕を回して抱きついた。
「サリ?」
彼女なんだから、いいよね。これくらいは。
「譲くん、こっち向いて」
譲くんの体が私と向き合う。
唇を合わせようとしたら、ほんの少し、譲くんの体が緊張した。
それだけで、彼にその気がないのが分かってしまう。
これじゃ、義務のキスをさせてしまう。それは嫌だった。
ぽす、と私は頭を彼の胸に当てた。
譲くんのほっとする気配が伝わる。
男の人の、肌と筋肉は、とても素直だった。
したいことと、したくないことが、触れているだけで伝わってしまうくらいに。
「サリ、……したい?」
おずおずとした聞き方。断ってほしい、という思いがにじみだしてる。ほんの少しだけ私のほうにかけてきた体重は、引き返したくてたまらないのが明らかだった。
それでも、私が言葉に詰まっているせいで、徐々に体が押し倒されていく。
やがて横たわった私の上に、譲くんが覆いかぶさった。
好き合っている。そのはずだ。
でも、それだけでしかない。
それ以外のなにかが足りない。
なにかあるんだ。私と譲くんには、分かり合えていないなにかが。
でもそれを、私はまだ教えてもらえない。
だから私たちは、抱き合っていても、形が合わない。そのまま強く抱きしめたら、大きくずれてしまう。
譲くんは、私とそのなにか、どちらかをとるとしたらどちらなんだろう。
その選択がされない今のままで、私はいつまで、譲くんを好きでいられるんだろう。
そう考えたら、寂しくて怖くて、泣けてきた。
しないよ、したいわけじゃないよ。とかろうじてつぶやく。
今涙を見せるのはたぶんずるいと思って、私はしばらく、額を譲くんの胸板に押しつけていた。
譲くんが、ゆっくりと私の上からどいて、横に寝転がった。
私の上には、誰もいなくて、広く開かれて、天井だけがあって、夏だっていうのに涼しくて、……
そばに誰もいないみたいだった。
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