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序幕
「宮様。こちらが有栖川宮熾仁親王様ですよ」
侍女か誰かにそう紹介された時のことは、正直言ってよく覚えていない。
宮様、こと和宮は、まだたったの五歳だった。
婚約者として紹介された熾仁は、すでに十六歳。五歳の幼女から見たら、随分と大人に見えた。周りの大人と、そんなに変わらなかった。
それは多分、熾仁から見た和宮は、将来の伴侶としてみるには幼すぎたであろうことを意味している。かと言って、彼が和宮を邪険に扱うことは決してなかった。
訪ねて来る彼は、端正な細面にいつも柔らかい笑みを浮かべ、まつわりつく和宮をうるさがらず相手をしてくれた。
けれど、彼の優しさは『妹』に向ける兄のようなそれだった。
それでもよかった。和宮は、そんな『お兄様』が誰よりも好きだった。
『兄』と『妹』のような関係で満足だったのに、彼に相応しい大人の女性になりたいと思い始めたのがいつの頃だったのか、これも和宮には自覚がない。
ただ、そう思い始めた頃から、彼が師として指南してくれる書道も歌道も、より懸命に修練した。気にして欲しくて、せめて書道や歌道だけでも「大人になったね」と言って欲しくて。
そして彼が、和宮に対するよりも打ち解けた様子を見せる、彼女に少しでも近づきたくて――
***
――タン! という小気味よい音が、抜けるような青空に溶ける。
音源は、中庭にしつらえられた的だ。そのど真ん中に、見事に矢が数本突き立っている光景は、秋深まった紅葉に染まる貴族邸の庭園にはひどく不釣り合いだ。まるで、現役武士の鍛錬場の有様である。
直後、不意に拍手が庭先に響いて、和宮は振り返った。
格好は、先帝の皇女には似つかわしくない、小袖と袴姿だ。その手には、弓が握られている。
頭頂部に結い上げた長い黒髪が、彼女の挙動に合わせて艶やかに舞った。
「熾仁兄様!」
意思の強そうな、黒目がちのぱっちりとした瞳が、その視線の先に、中庭に面した広縁に立っている青年の姿を認め、嬉しそうに輝く。愛らしく上を向いた鼻先の下で、ふっくらとした桜のつぼみのような唇が全開で笑った。
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