PK

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PK

 どこまでも続く深緑の芝生にポツンと白いスポットがある。 そこに、幾何学模様が描かれた丸いボールを、八咫烏が胸に描かれたユニフォーム姿の男が置く。  日本人の、あるいは世界のサッカーファンが夢見た歴史的な光景である。  ひとりぼっちで、そこに佇むボールを、7万人超えの大観衆が注目している。  注目を浴びたボールは、どこか堂々と、しかしどこか所在なく、この後の結末が、自分に掛かっていることを認識しており、今か今かと、未来を待ち構えている。  スタジアム内の観客が、息を呑むような静寂に包まれている中、テレビからは、大興奮の声が耳に響いている。  その熱気が、部屋の中を真夏に変えていく。 「さぁ、日本代表エース早乙女。ボールをセットした。解説の松永さん!我々は歴史的な瞬間を目の当たりにしていますね!」 「もちろん!そして、彼なら決めます!我々にっぽんをここまで連れてきた男ですからねぇ!!」  理論もへったくれもない熱さだけの解説は愚か、試合状況を説明しないといけない、実況のスポーツキャスターまでもが、興奮を隠しきれない様子に、村上は思わず溜め息を漏らした。  ただ、その気持ちも、理解できない訳では無い。  1998年サッカーW杯フランス大会で、W杯初出場を果たした日本代表であったが、本大会である2034年日本大会までベスト16の壁を、あと一歩のところで、越える事ができなかった。  その度に、日本サッカー界の育成方法について、辛辣に語るコメンテーターが現れ、過去の強敵を倒した際のVTRと共に、今の日本代表に欠かせないのは何かと、度々議論していた。  しかし、そんな日本代表が、その数年後に、日本の地で後半アディショナルタイムに決まった、エースの劇的ゴールで同点になり、延長戦に望みが繋がった。  その後は、両者譲らず、試合はPK戦まで、もつれ込んでいる。今の日本代表に欠かせないものは、いつの時代も同じだった。  戦術云々ではなく、早乙女優希という世界で活躍できるほどの実力を兼ね備えた、一人のエースストライカーの存在だ。  それを言っては、おしまいだろ。と言って相手を皮肉った後に、戦術について、ああだこうだと言っていた、サッカージャーナリストたちの半分以上は、早乙女の登場により、仕事を失ったのではないか。  そう思わせてくれるほど、早乙女は日本サッカー始まって以来の逸材であった。  サッカーにあまり興味のなかった俺ですら、そのすごさはわかる。 「でもな、早乙女…」  と考えている間もなく、日本代表のエースは、セットしたボールを蹴るため、助走を開始していた。 村上は、その様子を見ることを放棄した。  というより、見る意味がないといった表現の方が正しいのかもしれない。 「早乙女、助走をつけて蹴った!!」 「…」  会場全体が静まり返った。  蹴り放ったボールは、ゴールポストを僅かに掠めて逸れた。  早乙女はPKを外した。  劇的ゴールを決めて、日本代表をW杯決勝のPK戦まで引っ張ったエースが。  試合終了のホイッスルが静まった会場内に響き渡る。  観客は、辺りの反応を見渡しながら、目の前で何が起きているのか、誰かが説明してくれることを待っている。  それは、実況・解説者も同じだった。  しばらく静寂が続いた。  この状況の説明をすることを、全員が放棄している。  しかし、頭の中には「負け」という二文字が、くっきりと浮かんでいる。  静寂を破るように、テレビから解説者の声が聞こえた。 「い、いや!でもよくここまで来ましたよ!にっぽん!日本代表の歴史的な快挙ですよ!だ、だって!ワールドカップ準優勝ですよ!!」 「そうですね。これまでベスト16の壁で阻まれてきましたから。」  解説者の隠しきれない動揺と、実況者のさっきまでの熱があからさまに冷めている対比が、手に取るようにわかる。  そして、観客の何とも言えない声援が木霊している。  日本代表の選手たちは皆が地面に突っ伏したり、膝を着いて地面を見つめたり、仰向けで空を眺めていたりする。  その中で唯一、凛と立ち尽くす背番号11の選手がいる。  PKを外した早乙女だ。  自分のしてしまった事の重大さに未だ気づけていないのだろうか、と思う人が多いはずだ。  しかし、カメラは明らかに彼の笑みを捉えていた。  彼は何を考えているのか。  無論、俺との会話のことだろうな、と村上は考える。 「放送席!放送席!では、キャプテンで、日本代表エースの早乙女選手に、インタビューを行いたいと思います!!」  メディアは、どれだけ酷なことをするのか、と村上から笑みが零れる。 「早乙女選手、見事な同点ゴールでしたが、PKは残念でした。今、どういった、お気持ちでしょうか。」  なんて、可哀想な状況だろうか。  数分前に、日本代表から優勝という二文字を奪ってしまった男の心を抉って、何を得ようと言うのだろうか。  村上は同情すらしそうになるが、その気持ちは、早乙女の言葉で一転する。 「もし、皆さんが僕の立場で、今のPKを決められると知っていたら、どうしましたか?」  インタビューをしていた元日本代表のサッカー選手は、カメラと早乙女を交互に見て、困り果てている。  日本中で村上だけが、腹を抱えて笑っていた。 「同情なんてアイツには似合わねぇな。」
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