その2「衝動」

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その2「衝動」

1 離れに通うのを許された一ヶ月間を境に、薫の書が、はっきりと変わった。筆を持つ前に、筆を入れる方向、線と線の間隔や角度、曲線の滑らかさ、字のバランス等をしっかり捉えた。適量の墨を筆に含ませ、背筋を伸ばし、腕全体を動かして、力強く、しかし、リズミカルに筆を運べるようになった。 お手本を眺め眺め、迷いながら、書いていた時には出せなかった、線の勢いが薫の書に現れ始めた。線質が変わった。 「線に勢いが出て、線質が良くなった。短期間で上達したね。よく頑張った」と佐伯も薫を評価した。 佐伯のことばを聞くと、薫は胸がいっぱいになったが、 「毎日筆を持っている内にわかったことがたくさんありました」 と言う思いは声に出して言えなかった。 2 そして、技術的なこと以上に薫の気持ちが変わった。 佐伯の教室は、書道家として生きる彼を慕って来た生徒がほとんどだった。どの生徒も子どもの頃に基礎を終え、鍛錬してきただけあって、書の世界に生きる気構えを持っていた。すでに書道家として活躍し、自分の書道教室で教えている生徒も少なくなかった。 基本編の漢数字やひらがなの練習から始めたのは、薫だけだった。薫は書道が楽しく、佐伯の教室が大好きだったが、他の生徒と自分の、あまりの実力差や環境の違いに、気後れを感じているのも事実だった。 薫が一番気後れを感じるのは田口貴子の存在だった。貴子は書道会「群青」で何度も受賞経験がある気鋭の新進書道家だった。佐伯が教室を立ち上げた頃から教室に通っている。美貌の持ち主で、裕福な家庭に育ち、気位も高かった。薫の書道教室入会も快く思っておらず、薫は貴子とろくに口を聞いたことさえなかった。 「ねえ薫、知ってる? 貴子さんは自宅に書道専用の部屋を持っているのよ」 「え、そうなの!」 「それにね、貴子さんが生まれる前から貴子さんの家にお手伝いさんがいてね。その人が貴子さんの美貌や才能に惚れ込んでいて、貴子さんの身の回りのお世話をしているんだって」 「なんだか小説の中のような世界ね」 「そのお手伝いさんが、貴子さんが書道に専念できるように書道練習の準備や片付けも全部しているんだって」 「どうしてそんなこと知っているの?」 「母から聞いちゃった。内緒にしてね」 と同じ年なこともあって親しくなった成田美緒が噂話をしたことが思い出された。 そう言う成田美緒も「群青会」のサラブレッドの一人だった。著名な書道家である母のもとで、幼い頃から書道に親しみ、研鑽を重ねている。飾らない気さくな人柄で、同じ年の薫とはすぐに仲良くなったが、二段の有段者で、指導者資格も持っているのだ。 佐伯の教室では、最年少で高校三年生の陽(はる)も初段の有段者で、両親は著名な書道家だった。陽は両親の手前、仕方なく佐伯の教室に通っているようで、あまり稽古熱心とは言えなかったが、薫は陽に天賦の才を感じていた。 以前は、華々しい経歴をもつ佐伯の教室の生徒と比べて、自分は初心者で、就職浪人中であり、特に目立った経歴も著名な家族もいないことに引け目を感じることがよくあった。 しかし、離れでの一ヶ月を過ごした今、人と比べるのではなく、書に心を向けられるようになったのだった。 「人は人、私は私なのだ」と少しは吹っ切れたように感じた。 「百枚書くより二百枚、二百枚書くより三百枚書く方が上達します。稽古は人を裏切らない」と言う佐伯の声に薫は我に帰った。 「しかし、ただなんとなく百枚書いていては意味がない。大事な点を捉え、それを頭で捉えるだけでなく、実際に書くことで体得するのです」 佐伯は熱っぽく語った。 「ひいては、書と向き合い、自分の心の世界を表現して行くのです」と佐伯は稽古している生徒に向かって言ったが、薫には佐伯が自分に向かって語っているかのように感じた。 薫は一人離れに通って、何百枚と書いた書のことを思った。手本をよく見ること、大事な点を心に留めること、姿勢を保つこと、運筆の力の配分等、大切な基本を実践練習で気づき、気づいたことを少しずつ身につけたことを思い返したのだ。 3 ちょうどその頃、佐伯は、彼が所属する書道会「群青」の定期書道展の案内が、本部から届いたことを生徒たちに告げた。薫は入選を目指している生徒たちの殺気のようなものを感じた。 「薫さん、あなたは入会して、まだ年月があまり経っていないけれど、あなたも出品するように」とみんなの前で佐伯が言った。 「え!? 私がですか……」 「ああ、そうだ。あなたはまっさらな状態から書道を始めて、熱心に稽古を重ねて上達して来た。その成果を書道展の作品として出展してほしいんだ。大作に挑むことは勉強になる。そんなあなたの姿は、書道を始めたばかりの人の励みにもなるからね」 佐伯が言い終わるのを待っていたように貴子が言った。 「先生、薫さんはまだ入会したばかりですし、今回は見送られたほうが宜しいかと思います」 -初心者と一緒に出展! この私が! まっぴらごめんだわ! - 口には出さないが貴子の心の声が聞こえて来るようだった。 佐伯は貴子の発言には答えず指導を始めた。薫は言いようのない落ち着かなさを感じた。 薫が離れに日参していた頃、教室で貴子と二人になったことがあった。その時の貴子との会話が不意に蘇った。 「薫さん、稽古日以外にも離れで練習しているの?」と貴子が意味ありげな声で聞いた。 「はい」薫が怯えたように答えると、 「先生と二人になることもあるの?」と貴子は薫の様子を探るように言った。 「ほとんど一人ですが、数回、先生が来られたこともありました……」 「そうなのね」と貴子は言って、値踏みするように薫を眺めると、稽古の準備を始めたのだった。 とても後味の悪い会話だった。最近、影を潜めていた気後れが、心の中に広がって行くのを感じた。 4 稽古時間が過ぎ、みんなが帰っていった後、薫は佐伯に辞退を訴えた。 「先生、定期書道展の出品を辞退したいです。まだ習い始めたばかりですし……」 「じゃあ、どのくらい習ったら出品できるんです? 」 「……」 「大作に挑戦するのは、いい勉強になる。基本編の手本を学ぶことは勿論とても大切なことだ。でも、大きな作品に挑む経験から学ぶことは多いんだよ」 薫は佐伯に説得されながら、二人きりの離れで作品を書いていた佐伯の姿を思い出した。張り詰めた空気の中で、気迫をみなぎらせて書に向かう佐伯と美しく迫力に満ちた佐伯の書作品が目に浮かんだ。 -私も書いてみたい! ― 薫は自分の本心に気づいた。抗いがたい衝動に突き動かされるのを感じたのだった。
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