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その1「墨の香り」
1
薫は、筆に墨を含ませ、姿勢を正し呼吸を整えると、筆を入れる角度、筆を運ぶ速度、留めの力の入れ方をイメージして「一」と言う字を書いた。
「一」と言う字はただ横に線を引くのとは違っている。始筆、筆速、終筆で字が違ってくる。書道を知らない人には同じに見えるかもしれないが、少しでも書道をかじったことがあれば、「一」だけでも字のうまさがわかるほど重要な文字だった。
「ただ頭で理解しているだけでは不十分だ。理解したことを、筆を取り何度も練習して、初めて体得できるのだ」と書き終えた「一」の字を見て薫は改めて思った。
薫のアーモンド型の目が、書いた字をじっと見つめた。薫が顔をあげると、ショートボブの髪もサラサラと動いた。小柄なことやベビーフェイス、化粧っけのないこともあって、薫は二十三歳と言う年齢よりずっと幼く、少女のような印象を与えた。しかし、深く澄んだ瞳は、彼女の思慮深さや芯の強さを思わせた。
日野薫は、佐伯の書道教室に出会った時のことを思い出していた。
一年前、大学は卒業したものの、薫の就職活動は思うように行かず、薫は就職浪人状態にあった。
薫は父を早くに亡くし、薫の母は一人で苦労して薫を育ててくれた。幼い頃から薫は苦労している母を喜ばせるために、積極的に母の手伝いもし、一生懸命に勉強もし、成績もよかった。でも、就職活動は惨敗だった。薫は母に申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだ。
でも、考えてみると、母の望むことを先回りして生きて来た薫には、自分が心からやりたいことがわからなくなっていた。薫は自分に夢や希望と言えるものが何もないことが虚しくてたまらなかった。
やっと資料館でのアルバイトが決まった日、その帰り道で、薫は「書道会-群青-」と毛筆で書かれた看板を見かけた。看板は趣がある和風住宅の門に書けられていた。力強く勢いのある字だった。薫はその字に強く惹かれ立ち止まった。
―なぜだろう? なぜこんなにこの字に惹きつけられるのだろう? ―
薫は自分でも不思議だった。力強く勢いのある字は、整って美しいだけではなかった。書と言うよりも、宇宙から見た群青の地球をイメージさせる抽象画のような印象を受けたのだ。無限の広がりを感じさせる世界に、両手をひろげて立ち、快い風が頬を駆け抜けるような。そんなイメージが一瞬にして薫に浮かび上がったのだった。薫が見とれていると、
「お嬢さん、うちに何か御用ですか?」
住人らしい男性に声をかけられた。
「いえ、私はただ……」
「どうされたんですか?」
「この字に……見とれていたんです」
「そうなんですね。ちょうど今日は書道教室の日だから、見学でもなさいませんか?」
と言う男性のことばに、薫は思わずうなずいた。
それが薫とこの書道教室との出会いだった。偶然始めた書道だったが、墨をすり、墨の香りの中で、墨と紙のモノトーンの世界に精神を集中させる時間が、この上なく快く楽しく感じるのだ。書に向かっている時は、就職が惨敗だったことも、将来への不安も感じなかった。無心になれるのだった。
2
書道教室を経営する佐伯隆也は、以前は高校の書道教諭をしていたが、書に専念することを決意し、十年間勤めた高校を退職したのだった。書道教室を始めて八年経つと言う。
教室には十五人前後の生徒が籍を置いていた。佐伯は週三回、夕方に約二時間教室を開いていた。授業料は月一万五千円だった。決して安い授業料ではなかったが、佐伯の教室は、そこに籍を置くだけで意味があるのだ。
佐伯は小学生の頃から、書道会「群青」の創始者八雲蒼風直々の教えを受け、蒼風の指導のもとで、幼い頃からその秀でた能力を発揮していた。「群青会」の学童の部では、常に首席だった。
最年少で有段者になり、指導者資格も、六段合格も、師範資格取得も全て最年少で取得した。その上、学童の部を修了した後も、華々しい受賞経験があったのだった。
書道会「群青」関係者の間では、「佐伯隆也先生の書道教室に通っている」と言うだけで、箔がつくのだ。
佐伯に妻子はなく、伯母夫婦の家の居候の身であり、書道教室も伯母夫婦の家の離れを使っているのだ。佐伯は痩身で切れ長の目が涼しく、なかなか美男子だった。
「背筋を伸ばして! 手だけで書くのではなく、腕全体を使って!」
「筆の入る角度をよく見て」
「線に勢いがない、『一』の字を百回書いて、練習して!」
「今習っている基本は、とても大事です。基本を大事にしなさい」
入会したばかりの頃、初心者の薫に佐伯は次々と指示を出し、付きっきりと言っていいほど熱心に指導した。薫は勢いのない、形の悪い自分の字を恥ずかしく思うことはあっても、佐伯の厳しい指導に不満はなかった。
快い緊張感の漂う教室に通うことが薫の生活の核になった。薫は休まず熱心に教室に通った。お世辞にも上手とは言えなかった薫が、みるみる上達し、まわりの生徒を驚かせた。努力が成果となる喜び、それを評価される喜びは、就職活動に惨敗して、自信を失っていた薫に深い喜びを与えたのだった。
そんな薫に佐伯は言った。「君は、今は教室の新人で、基礎固めの時期だから、こうして付きっきりで教えるけれど、次に新しい人が来た時には、その人を優先するからね。その時には、一人でも稽古できるように、今しっかり基本を学びなさい」
そんな佐伯のことばは少し寂しかったが、薫はただただ書道が楽しかった。佐伯の教室が好きだった。楽しい日々は怖く感じるほど速く、あっという間に一年が過ぎた。
3
薫が佐伯の書道教室で二度目の秋を迎えたある日、薫は佐伯から稽古の後、教室に残るように言われた。
「薫さん、この離れは、伯母の華道や茶道の教室にも使っているんだよ。その伯母夫婦が一ヶ月間、ドイツにいる息子夫婦の所に行くことになってね。その間、私に自由に離れを使うように言ってくれたんだ」
「一ヶ月間、先生が一人で離れを使われるんですか?」
「僕は作品をここで制作しようと思っているんだ」
「作品を書かれるのですね」
「そこでなんだけど、もし、あなたに練習する気持ちがあるなら、離れに来て稽古してもいいよ。教えてあげることはできないけれど」
「え、私が……。いいんですか?」
「私の教室の他の生徒と違って、あなたはまったくの初めてから書道を始めた。熱心に稽古に通って、ぐんぐん力を伸ばしている。書に向かう時間が多ければ多いほど、気づきがあり上達するんだ。それをあなたに実感してほしいんだ。可能なら毎日来ても構わない」
「本当ですか! ぜひ、離れを使わせて下さい!」
「でも授業ではないので、一切指導はなしだよ。それから、いつも教室の準備や片付けは、生徒みんなでやっているけれど、あなたが離れに通って練習する時は、離れの片付けや掃除は全部あなたがやりなさい。いいですね」
薫は、それから毎日、離れに通った。離れに着くと、窓を開け放して、掃除をし、敷物を敷いて、机を出した。書道道具を机に並べ、墨を磨った。墨の香りが離れいっぱいに漂った。佐伯からもらった基本編のお手本を出し、臨書した。漢数字、いろは等から始まる基本中の基本だった。
繰り返し練習することで、基本の大切さに気づいた。気づいたことを、筆を取って何度も練習して、初めて体得できることも感じたのだ。
薫は、毎日、離れに通い、一人で試行錯誤しながら、そのことを学んでいった。佐伯は、ほとんど離れには現れなかった。
ある日、めずらしく佐伯が離れに姿を見せた。
「薫さん、僕の硯で墨をすってくれる?」と言って佐伯は床に半切用の下敷きを敷いた。
薫は佐伯の硯で墨を磨った。墨と硯の擦れる感触が快く、墨の良い香りが漂った。その時、佐伯は薫が練習している基本編の手本の文字を見て、半紙を出すと、薫の筆を取り、机に向かった。
「先生、それは私の筆……」と言いかけて薫は黙った。
佐伯の姿から気迫が漂った。筆に墨を含ませると、力強く、しかし、軽やかに手本と同じ文字を書いた。ただ整っているだけでなく、線がしなやかで、力強く、字から伸びやかさが感じられた。
―美しい! ―
筆法用の手本の文字なのにもかかわらず、薫はその字の美しさに非常に感動した。感動が薄れない内に、自分も字を書きたいと思い、自分用の墨を磨った。佐伯は作品制作に没頭し、薫は佐伯が書いてくれた手本を熱心に臨書した。
墨の香りが快く漂う、張り詰めた時間が流れた。
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