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「お前はハエの交尾を見たいと思うんか?」
ひきつった笑いを浮かべた口からのぞく、血で濡れた歯が、蛍光灯の明かりでテラリと光っている。
この男の顔に、アザがあるのも、歯が血で濡れているのも、目が腫れているのも、不安になるというより懐かしいなぁと思った。
きっと僕の顔に同じようにアザがあっても、懐かしいなぁと思われると思う。
「、ぇ。と」
質問の意味がわからず、どもると、目の前の男はハハッと馬鹿にしたように笑った。
これも懐かしい。昔から、癖なのかわざとなのか、僕をこうして笑う。
昔は何度この笑いにビクビクして、背を丸めただろうか。今も心臓はキツくしめつけられるように痛むが、あの時のような逃げ出したい恐怖心とはまた違う、複雑な気分だ。緊張と、煮えるような興奮と、目が回るような、酔った時の感覚と似ている。
「ハエとか、ゴキブリとか、うーん、豚とか野良犬とかさぁ、そいつらの交尾を見たいって思うんか?って。お前はさ」
先程よりもゆっくりと、男は言う。子供に言い聞かせるかのように。
「いや、お、思わないよ」
僕がまたどもりながら、小さい声で答えると、男は「だよなぁ?」と言いながら軽く頷いた。
「俺たちはな、ハエだ。世の中のハエ。ゴキブリでもいい。俺達がどこで死のうが、寝ようが、クソしようが、世の中の人間からしたら、どうでもいいんだ。きたねぇな、と思う程度だ。俺達の事なんて見たくもねぇんだ。だから俺達が交尾しようが、なにしようが、どうでもいいんだよ」
血がついた口で饒舌に言う。
そして次の瞬間、髪の毛を強く掴まれ、僕の無意識に荒くなった呼吸を止めるように、キスをされた。
キスという柔らかいものというより、口に噛みつかれたような気分だった。
ベタついた空気と、腐った水の臭い、靴がタイルと擦れて立てる高い音、小さな虫が集まる蛍光灯の点滅、一気に早くなる自分の心臓の鼓動、首筋を落ちていく汗。
全ての感覚の中に、彼の熱い舌の感覚が加わって、それがだんだん血生臭く感じてきた。彼の口が血で汚れているのを見たから、その気がしただけかもしれない。
広い世の中や大勢の他人に、怯えていた僕が、この瞬間はじめて、26年間生きてはじめて、どうでもいいと思った。
僕と目の前にいるこの男以外、この世のことも、他人のことも、全くどうでもいいと思った。
あぁ、そうか、みんな、こんな感じなんだな。
どうでもいいんだな、みんな。
彼がまた、満足したように笑った。
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