step

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 目を覚ましたのは、食堂だった。  長いテーブルには三脚ずつ向かい合わせて椅子がセットされている。鈴木はその一つ、マントルピースを正面に見る真ん中の椅子に座らされていた。  見ることは出来ないが、高い背もたれの後ろで両手を何かで縛られている。傾けていた顔をゆっくりと上げながら、目もゆっくりと開く。そして、ゆっくりと記憶も手繰っていった。  自分の背中側の壁は玄関と同じ方角で、細長い窓が二つある筈だ。南向きなので、昼なら日が差し込んで明るい。  今は何時だ?  鈴木は左に顔を向けた。  西の壁には一間の窓がある。フランス窓の方が似合うのだろうが、二枚の引き違い戸だ。それでも木製サッシなので、部屋の洋風な雰囲気が崩れることはなかった。この家の建具はほとんどが木製だ。窓にはカーテンがひかれ、外は見えなかった。  顔を正面に戻す。種類までは判らなかったが、石でできたマントルピースには、幾つかの装飾品が並べてある。皿や燭台、中央には置時計。針は七時十四分を差していた。  多分、夜だろう。もし朝の七時十四分なら、一晩眠っていたことになる。しかもこの椅子で?まさか、それはないだろう。そう感じるほど、体に痛みや凝りは感じない。  と、そう思った瞬間、頭の痛みを思い出す。  右の側頭部が少しズキズキした。  何で殴られたんだ?硬い物?素手?血が出ているのか?くっそ、あの男。  キッチンのドアが開いた。  マントルピースの左側の方だ。鈴木は条件反射のように肩をすくめる。相手との距離がある程度あるのにも拘らず、またいきなり殴られるのではという恐れが、鈴木の全身を襲った。  しかし、入ってきた男は再び殴りかかってはこなかった。視線が合った鈴木に驚きはしたが、フンと鼻をならすと、無愛想に歩いてきた。右手には透明なグラスを持っている。鈴木の前の椅子を引いて、男はそこに座った。グラスには透明な液体が入っており、それを鈴木の前に差し出した。マントルピースを背にした男は、何処となく高慢に見えて、虫が好かなかった。  鈴木はグラスを睨んで言った。 「なんだ、これは?」 「水だよ」 「それで?」 「君に持ってきてやったんだ。喉が渇いてたいら可哀相だと思って」 「ふうん」 「なんだい?毒なんかじゃないよ。ただの水だから安心して飲んだらいい」  鈴木は相手をバカにするように目を細めた。さらさらの髪はカットしたてのように見えた。前髪は自然に額に垂れているが、耳周りは短くスッキリとしている。品のいいダークグレーのスーツを着て、左腕にはめている時計は銀色で太く、文字盤はぱっと見ゴチャゴチャしている。よく見ると、時、分、秒が別になっていた。小さな円形が三つ、それぞれの針を持って動いている。 「飲みたくても飲めないんだ」  鈴木が言うと、男は一瞬不可解な顔をした。  そして、すぐに笑い出した。「そうか。そうだったな」と、笑いながら膝を打つ仕草は芝居がかっていた。鈴木はとても好感の持てる相手じゃないなと思う。男は足を組み、腕組みもした。左手で自分の顎をつまみ、クスクスと小さくなった笑いを続ける。 「悪かったよ。手を縛っているのをすっかり忘れていた。でも、どうしよう?それを外すのはとても危険な気がするんだよ」 「できれば解いて欲しいね」 「でもね、人の家に勝手に入り込んだ男の手は、やっぱり縛っていた方がいいんじゃないかな?」  鈴木は黙っていた。  男は笑うのをやめ、じっと鈴木を見据える。 「警察はまだ呼んでいない。何の目的で家に入った?金目当てのケチな泥棒か?それとも、他に目的があるのか?」 「金以外の目的があると思う理由があるってことか。へえ。聞きたいもんだな」 「泥棒のくせに、偉そうな口を叩くんだな」 「泥棒が偉そうに喋ったらいけない法律があるのか?」 「ないだろうな」  つまらない冗談をバカにして、男は立ち上がると、マントルピースまで歩き、その角に肘をついて、斜な角度で鈴木を見下ろした。 「何が目的か、白状したらどうだ?」 「金だよ。俺は金にしか興味はない」 「ふん」  男は気に入らないと言うように、燭台の脚を指でなぞった。銀かプラチナかステンレスか、鈴木には区別がつかなかった。蔦が絡まったようなデザインで、蝋燭が三本刺さっている。蝋燭を下から絡め取る蔦の先には互生で玉子形の葉が茂っていた。マントルピースの上の壁には、大きな額入りの絵がかけられている。見た事のある絵だった。緑に包まれた庭園に池があり、池の中には沢山の蓮が生えている。どこかの有名な画家の絵だというのは判った。でも、本物の筈がなかった。模造品だ。ただのカラーコピーを、額に入れただけかもしれない。男はそれを、つまらなそうに見上げた。  鈴木は言った。 「警察は呼ばないのか?」  男はこちらを振り返ることもなく、絵を見続けていた。力のこもらない声で答える。 「そうだねえ。どうするかな」 「こんな所に縛られているより、警察に突き出された方が余程いい。大体こんなの、監禁じゃないか。俺はまだ何も盗んでいないのに、あんたは俺に暴力を働いた上に、監禁してるんだ」 「ふうん」 「これじゃあ、警察を呼びたいのは俺の方だ。俺は窃盗未遂。あんたは傷害、」 「煩いよ」  男はおもむろに振り向いて、冷たい声でそう言った。 「考えてるんだ。少し静かにしてくれ」 「何を考える必要があるんだ?警察を呼ぶ気がないのなら、解放しろ」 「私に命令するな。コソ泥が」 「俺がコソ泥なら、貴様は暴漢だよ」  男の冷たい目に熱がこもった。  急ぐことはないが遅くもない足取りでテーブルを迂回し近付いて来る。そして左手を振り上げ、バックハンドで顔を殴りつけた。決して服の上からでは体格が良いようには見えない。しかし力は驚くほど強かった。鈴木は椅子ごと倒れた。左側が打たれ、右側は床に打ちつけ、顔が潰れたような気がした。一瞬気が遠くなり、首を振ってそれを引き止める。クソと呟くが、それが声になったか自分で判らなかった。床に流れる血は見えなかったし、口に鉄の味も感じなかった。血が出るほどの怪我はしていないようだが、内出血くらいは起こしているだろう。頭の内出血は危なくないか?鈴木は自分に尋ねる。 「私の前で余計なことは喋らない方がいい。こう見えて、気が短いんだ」  鈴木は呟いた。男は聞き返す。 「なんだ?早速戯言を吐くのか?」 「名前は」 「は?」 「あんたの名前を教えろよ」 「知ってどうする」 「ただの記念だ」 「ふん」  男は倒れた椅子の脚に自分の片足を置いた。 「高弘だ。満足か?」 「タカヒロ。ふん。絶対忘れねえからな」 「勝手にしろ」  高弘は足に力を入れ、椅子の背を少し浮かせたところで、それを手で引っ張り上げた。鈴木は倒れた拍子に椅子から飛び出していた。床に転がったまま、腕が痛いので立ち上がる気にはならない。綺麗だと思っていた焦げ茶色の床を間近に見て、割と埃っぽいのに気付き、ただそれを眺める。 「君の名前は何ていうんだい?」  鈴木は面倒臭かったが、「鈴木だ」と、教えてやった。テーブルの脚は意外に太かった。単調な直線でなく、幾つかの窪みと膨らみがあった。丈夫そうで気に入った。女の脚も、あまり細いのは好きではない。腿は太腿でないと面白くない。そう思った後で、何を呑気に考えてるんだろうと自分で呆れる。タカヒロという男は、ちょっと普通じゃないぞ。このままでお前、大丈夫なのかよ? 「そう。鈴木君か」  高弘は言った。 「いつまでもそんな所に寝ていられるのも邪魔臭いからな。二階にでも行っててもらおうか。ロビーがあるんだよ。ソファーもテーブルもある。寝るならそこが丁度いいだろう」  高弘は無遠慮に手首の縛った部分を掴み、鈴木の体を起こした。乱暴に引っ張り、立ち上がらせ、前へ歩かせる。 「俺を寝かし付けてどうするんだ」 「安心しろ。男に興味はないよ」  そう言われて初めて、鈴木はその可能性があったことに気付いた。とんでもない家に入ってしまったものだ。  高弘は鈴木を後から押しながら、ドアを開けて玄関ホールに出る。階段に向かう。鈴木が仕方なしに足を上げ、一段目にそれを下ろした時だった。  バタン。  と、ドアが閉まる音がした。食堂のドアではない。それは既に締まっていたし、もっと重い音だ。  二人は玄関ドアを振り向いた。  目を丸くしている女が、そこに立っていた。
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