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部屋の真ん中のテーブルに突っ伏していたフィリベールが、うっそりと顔を上げる。
「ミシェル・ヴィクトワール・ベニシュ卿――ブランドブール辺境伯です」
従僕の答えに、フィリベールはすこしだけ笑った。
廊下に立ったまま、アニエスは頷く。
ブランドブール辺境伯の現当主。王太子の従兄に当たる人物。
年若い故に、一族を掌握するのに手こずっているらしい彼は、内紛を収めるために、今は領地にいる。
そこからの手紙だ。王太子にとっては好い知らせなのか悪い知らせなのか。
王太子が手紙を読み始めたのを認めると、従僕はそそくさと出て行った。
脇を抜けて走っていった従僕を視線だけで追って、わずかに笑みを浮かべる。
誰も近寄らない王子。
金の髪は長く伸びて、肩の上で一つに括られている。深い紺色の上着は、確かに新しくはないけれど、生地が体に柔らかく馴染んで動きやすそうだった。そしてやはり華奢だ。
そんなフィリベールを真っ直ぐに見据えて、アニエスは部屋に踏み込んだ。
瞬間、風が紙を踊らせた。
それなりの広さがある部屋の床一面に、紙が広がっていく。
白いままのものもあれば、鉛筆の線が縦横に走ったものもある。
よく見れば、それらは絵だった。ダニューヴ河を渡る船、牧場を駆ける馬、庭園に咲いた花。あるいは、人の顔。
その紙の嵐が収まってしまうと、とても静かだった。
開け放たれた窓から吹き込む風の音しかしない。
人の声がしない。誰も近寄らない、決まった女官や従僕がはいない、というのは誇張でも何でもなかった。
立ち尽くす格好になったアニエスに、椅子に座ったままのフィリベールは見向いてこない。
無表情な横顔からは、手紙の内容は探れない。
だから。
「殿下」
声を上げた。
すると、フィリベールは大きく肩を揺らして、振り返ってきた。青い――アクアマリンのような淡い青の――瞳に、吹き出すのを堪えるアニエスが映る。
「またお会いできて嬉しいです」
「嬉しくない」
ぷいっと。フィリベールは顔を背けた。やや頬が赤い。
アニエスは笑んだ。
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