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「私はただの女官ですので」
「嘘をつけ」
「すくなくとも今は、女官として参りました。こちらの花束を飾ってもよろしいでしょうか」
両腕に抱えたままだったライラックの花束をわずかに掲げる。
ちらりと視線を寄越して。手紙をくしゃくしゃに丸めてから、フィリベールは頷いた。
「花瓶はそこにある。水は汲んでこい」
「かしこまりました」
頷いて、外に出る。
丸められたということは、手紙の内容は碌でもなかったのかもしれない。
水を汲んで帰ってくると、部屋の真ん中のテーブルに向かったままのフィリベールは、今度は鉛筆を紙に走らせていた。
好奇心のまま覗き込んで、アニエスは驚いた。
「絵を描かれるのですか? 殿下が?」
「悪いか」
「いいえ、そんなことは……」
ないけれど、と瞬く。
紙の上に線を結んで形作られていたのは、パンだった。
今朝食べたのかもしれない、ロールパン。
「可愛いですね」
「煩い」
「絵を描くのはお好きですか」
笑いながら問うと、幼い頃からの趣味だ、とフィリベールは受けた。
「この馬の絵もスケッチも、みんな殿下が描かれたのですか?」
「そうだ」
悪いか、ともう一度。フィリベールは口を尖らせた。
アニエスは首を横に振った。
王太子にこんな面があるなど知らない。知らされていない。
セドリックも誰も、先に忍んでいた間諜たちは気付かなかったのだろうか。
それに何より。
女官たちの間で話に上がったこともない。
「絵の師匠などは」
「今はいない」
昔はいたということか、と瞬く。フィリベールはさらにむくれる。
「それに、最近は時間も道具も無いから、大きな物は描かない」
アニエスが言葉を続けないでいると、フィリベールは紙に向き直ってしまった。
だから、アニエスも本来の作業、花瓶にライラックを活けることを始める。
しっかり水を吸い上げたライラックはふっくらと膨らんでいた。その枝を白い陶器の大きめの花瓶に挿す。
薄紅、紫、白の花の山がふわふわと揺れる。
窓際の台に置くと、風を受けて、香りが広がった。
「これで如何ですか」
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