19人が本棚に入れています
本棚に追加
振り返って問うと。
「そのまま動くな」
と王太子は言った。
え、と返す。
フィリベールの右手は鉛筆を握ったまま。
その鉛筆がざくざくと紙の上を走る。アニエスを描いているのだと気がついて、目を丸くした。
「殿下」
「動くな。描きづらい」
何故、という問いは言えない。
やがて描き終えたらしい王子は、書き上がった作品をキャビネットへと突っ込んだ。
ほうっと息を吐いて、首を振る。体中が強張ってしまったと笑いながら。
「見せてはいただけないのですか」
と言ったのに。
「お断りだ」
フィリベールはまた頬を染めて、そっぽを向いた。
その時ちょうど、外で時計台の鐘が響いた。鳴り止むのを待って、彼は立ち上がる。
「出かける」
「どちらへ」
「父上の見舞いだ」
寝ているという父王を気に掛けていたらしい、とアニエスが納得している横で。
上着の襟だけ直して。
従者も騎士も、誰も従えず、彼は独りで歩き出した。
また独りだ。
そう思うと同時に廊下に飛び出して、アニエスはフィリベールの後ろに立った。
胡乱げに振り返る王太子に笑いかける。
「お供致します」
何故、と彼は唸った。
「殿下をお守りするためです」
答えて、首を傾げてみせる。
「もしもの時、人を殺すこともできますよ?」
極上の笑みをよこしてやったつもりだった。
フィリベールは唇を歪めた。
「勝手にしろ」
後ろ向きな許可だ。そう取って、アニエスは彼の背に付いた。
――死なせるな。
今のアニエスの中ではその命令が生きているから、付いていく。
最初のコメントを投稿しよう!